英領インド

かつて豊かな国であったインドがいかにしてイギリスに富を奪われていったのか

ムガール王朝のシャー・ジャハーンの治世はインド・イスラム文化が花を開き豊かな国であったのだが、イギリスがインド全域における覇権を確立した後1765年にベンガル地方の徴税権を獲得すると、インドを搾取するようになり、インドの村落制度は崩壊し、農民を飢餓に追いやった。
英領インド

GHQが焚書処分したイギリスのインド統治に関する本には何が書かれていたのか

GHQが焚書処分にした、ラス・ビハリ・ボースの『インドの叫び』には、戦後の日本人に知らされなかった、イギリスのインド統治の実態が記されている。かっては読み書きできる国民が多かったが9割以上が文盲となり、重税が課されて毎年のように飢饉が起きた。1919年4月には無辜のインド人数百名が虐殺された。
欧米の植民地統治

イギリスのインド統治に関わるGHQ焚書のリスト

GHQは戦後七千点以上の書籍を日本人が読めないように没収廃棄しましたが、処分されたのは日本人の戦意を高揚させるような書籍は必ずしも多くなく、戦勝国にとって都合の悪い歴史が書かれた書籍の多くが処分されていることはあまり知られていません。  こ...
GHQ焚書

GHQ焚書処分を受けた新聞社等発行書籍の点数ランキングと没収された書籍リスト

GHQによって没収され廃棄された書物のかなりの数が、新聞社が出版した書籍である。一番没収点数が多いのは朝日新聞社で、東京朝日新聞社を含めると141点に及ぶ。次に多いのが毎日新聞社で東京日日新聞社や地方の系列会社を合算すると84点、次いで同盟...
GHQ占領下

GHQの定めた検閲指針がわが国のマスコミなどで今も実質的に守られている理由

1946年11月25日付の公文書にGHQが「削除または掲載発行禁止」とした30項目が掲げられている。戦勝国に対する批判だけでなく、中国、朝鮮人に対する批判までもがその対象とされている。GHQは、日本人の歴史観が連合国にとって望ましいものでありつづけるため、さらに公職追放により、マスコミなどから保守の有力者を排除した。
GHQ占領下

GHQは日本人にどのような歴史を封印しようとしたのか

GHQは昭和20年9月10日に「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)を発令し、その日から新聞や雑誌などの検閲を開始し、すぐに同盟通信社と朝日新聞が連合国を批判したとして二日間の業務停止命令を受けている。さらにGHQは「新聞遵則」などを定め、雑誌や書籍、映画、放送などの検閲も開始し、没収された書籍を見ると、中世、近世、近現代の歴史研究書までがリストアップされている。
GHQ焚書

GHQ焚書処分を受けた著者別点数ランキングと処分された書籍等のリスト

第二次世界大戦後日本へ進駐してきた占領軍が、昭和二十一年から二十三年(1946~48年)にかけて、当時わが国で流通していた書籍のうち7769タイトルの単行本やパンフレットを「宣伝用刊行物」と呼んで没収・廃棄し、戦後の日本人が読めないようにし...
織田信長

信長が最後にイエズス会と敵対する行動を取ったのはなぜか

本能寺の変の前に宣教師たちを激怒させた信長の行為  前回の記事で、イエズス会の宣教師たちが信長を利用して寺社破壊を推進したことを書いた。信長は、布教を許したもののキリスト教に対する信仰はなく、後にはイエズス会にとって厄介な存在になっていった...
ご連絡など

2020年新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。  旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただき、まことにありがとうございました。 北野天満宮梅園  何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログやS...
キリスト教布教とその影響

宣教師が信長を利用して寺社破壊を推進したのではなかったか

イエズス会宣教師たちの書翰を読むと、神が「信長を用いて」寺社を破壊させたとの記載があり、宣教師たちは信長を利用して寺社破壊を推進した可能性を感じる。比叡山の焼討ちの前から信長はキリスト教の庇護者となっており、信長は南蛮渡来の品々に興味を抱いていただけでなく、自身に敵対する仏教勢力と戦うために、仏教勢力の敵であるキリシタンを利用しようとしたが、宣教師たちが望んでいた寺社破壊を一気に進めることとなった。
キリスト教布教とその影響

高山右近は北摂の寺社破壊を推進したのか

高山右近が高槻城主であった時代に破壊されたという伝承のある寺社が北摂地区には多数存在する。ルイス・フロイスの記録にも、右近が領内の寺社を破壊したことが書かれており、当時近畿地区の布教にあたっていたオルガンティノは、寺社の破壊を「善き事業」と書いている。宣教師たちが一般の信者を教唆して寺社破壊の糸を引いていたと思われる。
キリスト教布教とその影響

大友宗麟による寺社破壊と、島津との戦いののち海外に売られていった豊後の人々

大友宗麟はキリスト教に入信する前から日向国の寺社や仏像を破壊した。その後正式にキリスト教徒となった後も彦山焼打ちなどをおこなったが、家臣たちの多くが離反していくなかで島津軍から攻められ、滅亡寸前の所を豊臣軍の支援で乗り切り、豊後領は安堵された。しかし長年の戦乱で豊後の人々は疲弊し、海外に奴隷として売られた人が多かった。。
キリスト教布教とその影響

最初のキリシタン大名となった大村純忠は洗礼を受けた時に司祭と何を約束したか

キリスト教が広まっていった多くの地域で寺社や仏像の破壊が行われている。長崎ではキリスト教に転宗しないものは領外に退去を命ぜられ、神社仏閣はすべて焼き払われた。領主の大村純忠は永禄六年に洗礼を受けキリシタン大名となったが、宣教師から社寺や仏像の破壊を約束していたのである。
キリスト教布教とその影響

仏像を「悪魔」と呼んだフランシスコ・ザビエル

キリスト教は一神教であり、唯一絶対神以外を崇めてはならず、偶像崇拝をタブーとしている。ところが、ザビエルが布教に来た日本は偶像崇拝の国であり、ザビエルの書翰には「この国は、偶像崇拝と、キリスト教の敵の土地」で仏像を「悪魔」と記し、それに勝利しなければならないと書いている。
キリスト教布教とその影響

フランシスコ・ザビエルに、日本行きを決意させた日本人

1549年にザビエルが鹿児島に上陸して、日本にキリスト教を伝えたことは教科書にも出ているが、布教活動を始めるにはまず日本語をある程度理解できることと、日本に関する情報を事前にできるだけ収集しておくことが必要となる。ザビエルの書翰には、マラッカでヤジロウという日本人と逢い、彼の言葉を聞いて日本に行く決心をしたことが記されている。
滋賀

見ごたえある湖南三山の文化財と美しい紅葉

「湖南三山」というのは、湖南市に位置する天台宗の古刹でである「善水寺」「長寿寺」「常楽寺」の総称で、いずれも創建は奈良時代に遡るとされており、国宝や重要文化財の本堂・仏像などが多数見学できるばかりでなく、紅葉の名所でもある。特に善水寺の本堂の内陣に安置されている仏像はすごい迫力で、これだけ貴重な仏像が間近に鑑賞できる寺は少ない。
滋賀

湖東三山と教林坊、永源寺の紅葉を楽しんで

滋賀県の琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西の山腹に湖東三山と呼ばれる三つの天台宗寺院がある。北から西明寺、金剛輪寺、百済寺と並ぶのだが、いずれも滋賀県の紅葉名所である。湖東地区には外にも永源寺や近江八幡市にある教林坊など紅葉で有名な古刹があり、一日で巡ることができる。
京都

大原寂光院から八瀬童子の里八瀬へ、そして紅葉名所・蓮華寺へ

建礼門院徳子は平清盛の娘で、高倉天皇の中宮となり安徳天皇の生母となるが、壇ノ浦の戦いで平家一族は滅亡し、徳子は京へ送還されたのち出家して寂光院に移り住んだ。大原の南に八瀬がある。この地の人々は代々朝廷の駕輿丁を勤め租税も免じられていて、明治天皇・大正天皇の葬送で棺を載せた輿を担いだ。近くに紅葉の名所蓮華寺がある。
京都

紅葉の盛りに京都大原の古刹を尋ねて

江戸時代の『都名所図会』に大原三千院の名前がない。調べるとこの寺は、明治四年に京都御所周辺の寺町広小路から大原に移り、三千院と改称していることがわかった。今の三千院の場所には天台宗が大原の寺を統括する施設があったという。昔の大原は天台声明(しょうみょう)が盛んで、来迎院や勝林院がその中心地であった。
「鎖国」前後のアジア諸国

台湾からオランダを追い出した、日本人を母に持つ台湾の英雄

寛永十二年に日本人の海外渡航と国外にいる者の帰国が禁じられ、そのため朱印船が台湾に向かうことがなくなり、オランダが台湾を植民地にした。日本人を母に持つ鄭成功は、明を滅ぼした清と戦うため、台湾を拠点にしようとしてオランダ勢力を追い出してしまう。もし鄭氏政権が起こらなければ、おそらく台湾は二次大戦までオランダの植民地であり続けたことであろう。
京都

福知山市にある元伊勢三社から紅葉で名高い古刹・天寧寺、長安寺を訪ねて

伊勢神宮内宮の御祭神である天照大御神は、崇神天皇六年から約九十年ほど鎮座地を求めて各地を転々とし、そのあいだ一時的にせよ内宮あるいは外宮が祀られていたという伝承を持つ神社のことを「元伊勢」と呼ぶ。福知山には元伊勢三社と呼ばれる神社があり、それぞれを巡ったのち、紅葉で有名な天寧寺、長安寺を訪れた。
京都

紅葉の季節に京都府北部の古刹を訪ねて

京都府の北部地方の国宝や重要文化財を訪ねて、4つの古刹を拝観してきました。 綾部市の安国寺は紅葉の名所で、足利尊氏ゆかりの寺です。そのあと、京都北部にある唯一の国宝建築物がある光明寺を訪ね、舞鶴市の松尾寺と金剛院を巡ってきました。紅葉を楽しめただけでなく、貴重な文化財を多数拝見することが出来ました。
「鎖国」前後のアジア諸国

台湾を占領したオランダと戦った日本商人・浜田弥兵衛

オランダが侵略する以前の台湾の記録  台湾に関する古い記録を探していると、柴田賢一 著『日本民族海外発展史』の記述が目に止まった。日本人たちは戦国時代から、台湾に勢力を伸ばしていたのである。  支那人はこれを領土と称してはいたが、その実支那...
朱印船貿易と東南アジアの日本人

シャムで活躍した山田長政とアユタヤの日本人町~~朱印船貿易と東南アジアの日本人4

現在のタイ国のアユタヤにも日本人町があった。16世紀の半ばからタイ国との交易が始まりその後日本人が住み着くようになり、寛永の末期には商人や、武勇を買われて王室に仕える者など8千人余の日本人が居住していた。山田長政はソンタム国王に認められ重用された記録があるが、その後江戸幕府が日本人の海外渡航と海外日本人の帰国を禁止し、アユタヤの日本人町は衰頽の一途をたどることとなる。
朱印船貿易と東南アジアの日本人

フィリピンの日本人町はどういう経緯でつくられたのか~~朱印船貿易と東南アジアの日本人3

1571年にスペインはフィリピンを征服し植民地としたが、その時点ですでにマニラには日本人・中国人が貿易の為に居住していた。その後スペインと我が国との交易が始まりマニラの日本人が増加したが、豊臣秀吉がフィリピン総督に降伏勧告状を出したことから、総督は日本人が敵対することを怖れて日本人を一定の場所に居住させた。そうして日本人町が出来た。
朱印船貿易と東南アジアの日本人

秀吉が朱印船貿易を開始する前後のフィリピン~~朱印船貿易と東南アジアの日本人2

日本人は古くからルソン島に居住し、日本商人による交易が行われていた。しかしスペインがフィリピンを侵略したため、日本商人の商圏が奪われ、スペイン人と対立することとなる。豊臣秀吉は、フィリピン総督であるスペイン人のダスマリナスに三度にわたり降伏勧告状を送っている。その内容にスペイン人は恐懼している。
朱印船貿易と東南アジアの日本人

秀吉が南蛮貿易を奨励して以降、外国との貿易はどう変わったか~~朱印船貿易と東南アジアの日本人1

秀吉は海外貿易を行う商人に朱印状を与えて貿易統制したが、江戸時代には日本との交易が禁じられていた明商人にも朱印状が発行されている。南蛮貿易が活発化して、東南アジア各地に日本人町が発達し多くの日本人が移り住んだが、ポルトガル船により多くの日本人奴隷も送られた。後に江戸幕府は武器・奴隷・傭兵の禁輸令を出している。
倭寇

後期倭寇の実態はいかなるものであったのか~~倭寇4

明は海禁政策をとり「私貿易」を厳禁した。だが、当時すでに日本に送られる支那の貿易品には生活必需品がかなり含まれており、結果としてわが国の「私貿易」は盛んになったのだが、明の取締りが厳しくなると中国沿海地方の悪徳商人たちが利権を手中に収め、王直は長崎の五島や平戸に本拠を置きアジアの商圏を拡大していった。
倭寇

「前期倭寇」の活動が鎮まった経緯と「後期倭寇」が発生するまで~~倭寇3

南北朝の統一がなったのち足利義満は明国に対し強硬な態度で臨むことを改め、まるで明国に媚びを売る姿勢て外交に臨み、明との勘合貿易が開始されて次第に倭寇は減少していく。その後幕府の財政難から大内氏や細川氏に貿易船を出すことが許されるようになると、その利権を巡り大内・細川両氏の争いが熾烈化し、公貿易が中止となる。その後私貿易・密貿易が行われ、後期倭寇が急増する。
倭寇

「前期倭寇」を考える ~~ 倭寇2

前期倭寇が頻発していた時代の大部分はわが国の南北朝時代にあたっている。そして急激に件数が増加したのは、足利直義と高師直が対立し、政争に敗れた直義が南朝に帰順した以降のことである。同じ時期に中国では朱元璋が明を起こして元を北に追いやり、朝鮮半島では李成桂がクーデターを起こして李氏朝鮮を成立させた。
倭寇

倭寇はなぜ元寇のあとから頻発するようになったのか~~倭寇1

9世紀から11世紀にかけて、九州沿岸地方には外国の海賊による襲撃・略奪を何度も受けた記録が残されている。特に有名な事件が刀伊の入寇であり、13世紀に元寇があって、多くの住民が虐殺され拉致された。倭寇は元寇の復讐との見方があるが、南朝勢力が倭寇に関わっていたという記録もある。
GHQ焚書

復刊されて比較的手に入りやすくなっているGHQ焚書

戦後GHQが書店で流通している書籍を没収し日本人に読ませないようにしましたが、その一部の書籍が復刊されて、手に入りやすくなっています。文庫化された本や最近復刊された本などを集めてみました。
元寇

弘安の役で元軍を襲った台風の後も続いた死闘とその後の元の日本侵攻計画~~元寇5

弘安の役で台風が襲来したことは事実だが、東路軍の被害は比較的少なく高麗軍は7割以上が帰国している。江南軍の船は多くが沈んだが、多くの将兵は無事でまだ戦える戦力は保持していたのだが、司令官や将校たちは数万の兵卒を見捨てて船に乗って逃げて行った。その後両軍が博多湾と鷹島沖で激しい掃討戦が行われた。
元寇

弘安の役における武士たちの活躍~~元寇4

弘安の役における東征軍は東路軍と江南軍の二軍編成で、総数は14万人を超える大規模なものであった。東路軍が先に合浦を出港し、6月6日に博多湾に現れたが、防塁が築かれていたための博多湾内の上陸はできず、志賀島に一部の船を上陸させたが、日本武士たちは何度も夜襲をかけて東路軍の進撃を阻んだ。東路軍は一旦壱岐に退き江南軍との合流をし、いよいよ大軍が博多湾に向かうこととなる。
元寇

北条時宗は文永の役のあと次の元寇に備えてどう動いたのか~~元寇3

第一回目の日本征伐が失敗し、元のフビライは日本再征を決断し、文永の役の翌年に使者を送り込んだが執権北条時宗は使者の斬首を命じ、次回の元寇に備えて博多湾に防塁を建設し、要衝に兵を駐在させて国の守りを強化した。一方、元は次回の元寇で必ず日本を征伐するため二十一万の大軍を送もうとしていた。
元寇

文永の役で優勢に戦っていた元・高麗連合軍の船団がなぜ博多湾から消えたのか~~元寇2

文永の役で元・高麗連合軍が一夜のうちに博多湾から消えたのは、元や高麗の正史では、兵力が不足し、矢も不足していたことが記されている。彼らの撤退は予定の行動であったのだが、鎌倉幕府や朝廷は有名な寺社に「蒙古退散」の祈祷を依頼していたことから、寺社側は祈祷の効果があったと主張した。
元寇

GHQに焚書処分された北条時宗に関する書籍に何が書かれているか~~元寇1

北条時宗に関する書籍がGHQによって焚書処分されている。現状の教科書には北条時宗について,元のフビライの朝貢要求を無視したとだけ書かれているのだが、GHQ焚書処分された本には、北条時宗や元寇について何が書かれているのだろうか。文永の役では対馬や壱岐で多くの島民が略奪され虐殺され奴隷にされていることや、博多に上陸されたのち多くの犠牲者が出たことが詳しく書かれている。
国会図書館デジタルコレクション

参謀本部が編集した日本および世界の戦史

「国立国会図書館デジタルコレクション」に、大日本帝国陸軍参謀本部が英知を結集して膨大な資料を解析・編纂した、日本及び世界の戦史が収められている。ネット環境があれば誰でも無料で読むことが出来る。 合戦の推移と政治情勢を克明にバランスよく綴って...
関東大震災

震災直後の朝鮮人殺害は流言飛語によるものとする通説への疑問

当時の記録を読むと、地震直後に朝鮮人による放火や掠奪が起こっており、ダイナマイトも多数押収されている。朝鮮独立を目指していた義烈団は大正10年に裕仁皇太子(後の昭和天皇)を誘拐する計画を実行しようとしたし、上海仮政府は大正12年の皇太子の結婚の儀にテロを行う計画があった。偶々大震災が起こり、テロを行う好機と考えたとの朴烈の証言もある。
関東大震災

関東大震災のあと避難者たちが「朝鮮人暴動」を怖れたのはなぜか

通説では関東大震災の混乱の中で「朝鮮人暴動」の流言が広まり、これに不安を感じた住民の自警団が多数の朝鮮人を殺害したとされている。しかしながらそのような流言がなぜ広まった時代背景や殺害の具体的な記述がされることはない。 当時の新聞を読むと連日朝鮮人による犯罪やテロ準備の記事が出ているのだが、この事実を書かないのは歴史叙述として公平でないと思う。
関東大震災

関東大震災の貴重な記録は今日に活かされているのか~~その3.津波被害

関東大震災ののちに鎌倉、伊東、熱海、三浦、逗子などで津波が襲い、多くの犠牲者が出ている。観光地が多かったことと無関係ではなかったと思うのだが、抜本的な津波対策は行われずに復旧が急がれ、津波被害も矮小化して記録されていると思われる。地震後すぐに津波が来る可能性が高い地域なのだが、人々の避難は可能なのだろうか。
関東大震災

関東大震災の貴重な記録は今日に活かされているのか~~その2.横浜の大火災

関東大震災の横浜の被害は、都市の規模を考慮すると東京よりもひどかった。横浜も火災旋風のために市街の大部分が焼失したが、横浜公園に避難した人々は、水道管の破裂により公園内の広場に水たまりが出来ていて、濁水に首を浸して多くの避難民が焼死を免れている。しかし、被災者に水や食糧が充分に行き渡らず、食糧の掠奪などが起きた。
関東大震災

関東大震災の貴重な記録は今日に活かされているのか~~その1.大量の焼死者が出た東京

大正12年9月の関東大震災で10万5千人の死亡者が出たが、死因の9割は火災によるものであった。東京では本所被服廠跡の空き地に多くの人々が避難していたが、その場所に火災旋風が起こって、その場所で3万8千人が亡くなっている。この当時の記録や論文などを読むと、関東大震災の教訓は殆んど今日に活かされていないことに愕然とする。
国会図書館デジタルコレクション

朝鮮総督府がまとめた朝鮮史

朝鮮総督府が朝鮮・中国・日本の史籍における朝鮮に関する記述を集めて編纂した朝鮮史。 タイトル出版社出版社出版年国立国会図書館URL朝鮮史. 第1編 第1巻新羅統一以前~新羅文武王8朝鮮史編修会 編朝鮮総督府昭和7朝鮮史. 第1編 第2巻神代...
国会図書館デジタルコレクション

統計資料

日本帝国統計年鑑、 朝鮮総督府統計年報、満洲経済統計年報、陸軍省統計年報など過去の統計資料を集めてみました。数字の裏付けなどを取りたいときにご利用ください。 タイトル編集刊行年国立国会図書館URL日本帝国統計年鑑. 第31内閣統計局 編大正...
大阪

国史跡日根荘に残された国宝慈眼院多宝塔から七宝瀧寺などを訪ねて~~泉南の神社仏閣その2

国史跡の日根野に慈眼院と日根神社があり、伝承によるといずれも秀吉の紀州攻めで焼かれたとされている。更に山に入ると火走神社があり、さらに進むと七宝瀧寺がある。この寺も秀吉の紀州攻めで焼かれたと伝わっている。なぜこんな山奥の寺までが焼かれたのだろうかと誰でも疑問に思うところだ。
大阪

秀吉の紀州攻めで焼かれたとされる古寺を訪ねて~~泉南の神社仏閣その1

泉南地区の大威徳寺、神於寺、孝恩寺、水間寺を巡って来たが、いずれも秀吉の紀州攻めの際に焼かれた伝承が残されている古刹である。しかしながら、根来衆の防衛ラインの最も東にあった千石堀城の戦いでは城内の根来衆は全滅している。防衛ラインよりも東や北側の寺が焼かれているはなぜなのか。イエズス会のフロイスの記録に着目したい。
豊臣秀吉

文禄の役で明国との講和交渉を大失敗に導いた小西行長~~GHQ焚書とされた秀吉の伝記を読む3

文禄五年に来朝した明の使節が奉じた国書には、三年前に秀吉が伝えた講和条件は全く反映されず、日本を明国の属国とする内容であった。明国との講和交渉を担当したのはキリシタンの小西行長だが、当時の宣教師たちの書簡を読むと、行長はスペイン側の戦力に織り込まれていた。秀吉が彼に講和交渉を委ねたのは誤りであった。
豊臣秀吉

秀吉の朝鮮出兵はなぜ二回行われることになったのか~~GHQ焚書とされた秀吉の伝記を読む2

GHQ焚書となった加藤武雄『豊臣秀吉』では朝鮮出兵について、朝鮮にはろくな軍備がなかったので陸戦は連戦連勝で勝ち進んだことが記されている。しかしながら、日本軍の船は輸送を主目的で建造されたものであり、朝鮮海軍に物資の輸送を阻まれて兵糧不足が深刻となり講和交渉が始まったが、明の国書に秀吉は激怒する。
豊臣秀吉

秀吉の伴天連追放令と朝鮮出兵の背景を考える~~GHQ焚書とされた秀吉の伝記を読む1

GHQ焚書の『豊臣秀吉』は戦前に書かれた秀吉の伝記だが、この本には戦後の日本人には知らされていない史実が書かれている。当時の宣教師がポルトガル・スペインの侵略の先兵であり、多くの寺社が破壊され、土地が奪われ、日本人が奴隷として海外に売られ、それらの問題に秀吉がどう向き合ったかという視点に立つ本は今も少ない。