攘夷の実行と諸外国の動き

薩摩軍の砲撃で多くの戦艦に損傷を受け、上陸せずに退却した英艦隊~~薩英戦争2

文久三年七月一日、国書に対する薩摩藩の回答に納得できないニール代理公使は、軍事力行使を決意し、湾内の藩船三艘を拿捕し掠奪を開始した。すると薩摩藩の大砲が火を噴き、対戦準備が整っていない英艦船の大半が大砲の直撃を食らっている。英艦は大砲から距離をとり、薩摩の砲台を破壊していったが、人的被害は英国軍の方が大きく、翌日英艦隊は上陸せずに横浜に向かった。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した「国際連盟」に否定的な書籍~~野瀬秀彦『国難来る日本勝つか聯盟勝つか』

1933年(昭和8年)2月の国際連盟臨時総会で、満州における日本軍の撤退などを求める勧告案が圧倒的多数で可決され、翌月にわが国は国際連盟脱退を通告したのだが、学生時代に学んだ時は、なぜわが国が国際連盟の脱退を決めたのが良くわからなかった。 ...
攘夷の実行と諸外国の動き

薩摩藩は七隻のイギリス艦船を奪い取り、代理公使を捕虜にしようとした~~薩英戦争1

幕府との交渉を成功させたのち、ニールは7隻の軍艦とともに鹿児島に向かい、薩摩藩に生麦事件の実行犯の処刑と賠償金獲得を要求したが、薩摩藩はいずれも応じず、わが国で合法な行為が認められない条約を締結した幕府に責任があると回答した。武力行使を決意したニールは報復措置として湾内の汽船を拿捕を開始したが、薩摩藩の設置した全砲台が英艦に向かって火ぶたを切った。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した青少年向けの書籍~~桜井忠温「子供のための戦争の話」

GHQが没収廃棄して、戦後の日本人に読めないようにさせた本のなかに、青少年向けの本が少なからずあるが、これらの本は著者が若い世代にも理解しやすいようにやさしい言葉で記されているのでありがたい。実際何冊か読んでみると、戦後になって多くの史実が...
攘夷の実行と諸外国の動き

生麦事件の償金を得るための英国の砲艦外交と、攘夷実行を迫られていた幕府の対応

生麦事件のあと英代理公使のニールは、本国からの指令に基づき賠償金10万£の支払いを薩摩藩ではなく幕府に求め、横浜港に12隻の大艦隊を集結させ、拒絶する場合は武力行使を明言し圧力をかけた。その時将軍家茂は攘夷実行の期限を約束することを迫られており、老中小笠原長行は英国が武力行使する寸前に賠償金を支払った。
GHQ焚書

GHQが焚書処分したスパイ・謀略関係書籍~~新井辰男『スパイと防諜』

戦後のわが国は世界各国から「スパイ天国」と呼ばれて久しい。  わが国は最先端の科学技術を持ち、世界中の情報が集まる情報大国でありながら、世界のどこの国でも制定されているような「スパイ防止法」が存在しない。そのために、わが国で某国の工作員がス...
攘夷の実行と諸外国の動き

外国人襲撃事件が頻発する中で起きた生麦事件と英国人らの反応

坂下門外の変後幕府は閣老らを大幅に入れ替え、従来の格式を打ち破って参勤交代の頻度を減らすなど大名の負担を軽減し、朝廷の機嫌をとったりしたのだが、その結果幕府の力はさらに弱まり、過激分子が外国人を襲撃する事件が多発するようになった。生麦事件の後、幕府に対する外国人の不満が爆発し、薩摩藩に復讐する意見が盛り上がったのだが、ニール英国代理公使の発言で武力衝突が避けられた。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した「排日」関連書籍~~勝井辰純『猶太人の陰謀と排日問題』

以前私の別のブログでアメリカの反日と中国の反日をまとめたことがある。  戦前の新聞記事や、アメリカ人ジャーナリストなどの当時の記録をもとに連載したものだが、今もよく読んでいただいている。  学生時代に授業で学んだ時は、なぜアメリカや中国で反...
ユダヤ人

GHQが焚書処分した「ユダヤ」関連書物~~筈見一郎『猶太禍の世界』

GHQが没収・廃棄した書物リストの中から「ユダヤ」「猶太」「フリーメーソン」「マソン」という文字をタイトルに含む本を調べると、全部で21点存在する。そのうち「国立国会図書館デジタルコレクション」で7点がネット公開されている。  ユダヤ人に関...
公武合体と尊皇攘夷

尊皇攘夷派の武士が増加した背景と坂下門外の変

開港後外国貿易が急速に拡大し、主要輸出品である生糸、茶などの価格が高騰し、消費階級である武士や公家の生活が困窮した。武士の外国人に対する反感や憎悪の念が、幕府に対する不満の情と結合し、外国人を暗殺する事例が相次いだが、文久二年一月には開国政策を進め、和宮降嫁を推進した老中・安藤信正が水戸浪士に襲撃され、一命をとりとめたが失脚した。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した「共産主義」「共産国」に否定的な書籍~~中保与作『赤色アジアか防共アジアか』

GHQは「共産主義」「共産国」に対して否定的な立場で記された本を多数没収廃棄している。一方、共産主義者の著書は殆んど廃棄されていない。近年ソ連の暗号文書など研究が進み第二次大戦に於けるソ連の関与が解明されてきているが、戦前にそのことを指摘する識者が少なからず存在したものの、そのような本がGHQにより焚書されたことを知るべきである。
公武合体と尊皇攘夷

皇女和宮を将軍徳川家茂に降嫁させたことが幕府の権威失墜を招いた

老中・安藤信正は井伊直弼の剛直な武断政治を改め、さらに公武合体の成果を国内に示すために和宮を将軍・徳川家茂へ降嫁させようとした。この話は孝明天皇に一旦却下されたが幕府は諦めず、和宮周辺の説得工作を続けて再度を奏請している。岩倉具視らは、朝威を回復する好機とであると上奏し、天皇は攘夷を行うことを条件とすると幕府はそれを承諾し、天皇は和宮の降嫁を勅許した。
GHQ焚書

GHQが焚書にした「白人対有色人種」という視点で書かれた書物など~~宮田光雄『有色民族の復興と其経済的自決』

『昭和天皇独白録』は、昭和天皇が戦前・戦中の出来事に関して昭和二十一年(1946年)に側近に対して語った談話をまとめた記録だが、その冒頭に書かれていることは非常に重要なことである。 大東亜戦争の遠因 この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后...
安政の大獄から桜田門外の変

桜田門外の変と、その後の薩摩藩、彦根藩、幕府の動き

安政七年三月三日の朝は、桃の節句にしてはかなり寒く、雪が降り積もっていた。合図とともに水戸の志士達は前衛を衝き斬り込んだが、彦根藩警固の士は不意を襲われ、雪のために刀の柄や鞘を羅紗袋などで覆っていたため刀がすぐに抜けず、簡単に輿の戸を破られ、井伊大老の首を落とされている。その後彦根藩は、井伊家が取り潰しにならないように、大老の死を隠蔽し、幕府も彦根藩が断絶とならないように協力した。
情報戦・宣伝戦

GHQが焚書処分した「思想」「宣伝」に関する本~~『支那の対日宣伝策 : 支那に於ける国防と新聞事業の統制』

GHQの焚書リストの中に、昭和十二年に海軍省海軍軍事普及部がまとめた『支那の対日宣伝策 : 支那に於ける国防と新聞事業の統制』という本がある。この書物は海軍省が書いたものではなく、支那藍衣社機関紙上海汗血書店発行の「汗血月刊」第八巻第六号(...
安政の大獄から桜田門外の変

水戸藩・薩摩藩が井伊大老の暗殺を計画した経緯

安政五年より薩摩藩で井伊大老暗殺の計画があり、水戸藩士の一部もその密議を重ねていた。安政六年の末に大老井伊直弼は水戸藩に下された戊午の密勅を幕府に納めさせようと、朝廷から勅書返納の御沙汰書を手配させ、水戸藩主の徳川慶篤に強硬に迫り、密勅を幕府に納めようとする藩の動きに藩士たちが立ち上がり、暗殺計画が動き出した。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した「大東亜」「東亜」という文字を含む書籍~~小牧実繁『地政学上より見たる大東亜』

第二次世界大戦の終戦までは「大東亜戦争」という呼び名であった戦争は、GHQによって「太平洋戦争」という呼び名に書き換えられた。そればかりではない。GHQは「大東亜戦争」という言葉は「戦時用語」として使用を禁止し、現在もマスコミなどではこの戦...
安政の大獄から桜田門外の変

無勅許で安政五カ国条約を締結したことと安政の大獄

安政の五カ国条約を無勅許で締結した幕府だが、実際に港の近くに外国人が居住するようになると攘夷熱が高まってきた。将軍継嗣問題で敗れた一橋派は、条約勅許問題で朝廷を巻き込み、井伊大老に圧力をかけようとした。「戊午の密勅」のあと井伊はその禍源が水戸藩にあるとにらみ、尊攘派や一橋派の大名・公卿・志士などを捕縛し厳しく処罰した。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した皇国史観的なタイトルの書物~~瀧澤七郎『皇軍を慰問して』

GHQの焚書リストの中で、タイトルに「天皇」、「皇国」、「皇軍」、「皇民」、「皇室」という言葉を含む書籍を調べると全部で187点存在する。そのうち「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されているのは53点である。  「皇国」、「...
開国前後

将軍継嗣問題の対立が深まるなかで、相次いで無勅許で結ばれた安政五カ国条約

安政五年四月に日米修好通商条約の勅許取得に失敗した堀田正睦が江戸に戻ると、南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり幕府の主導権を握った。イギリスが通商条約締結のために日本に向かっているとの情報が入り、急遽日米修好通商条約を締結。その後蘭、露、英、仏と相次いでどう同様な条約を結んだが、勅許を得ずに調印を進めたことで朝幕間の対立が深まり、攘夷派の幕府攻撃が過激化した。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した日本の通史~~北垣恭次郎『新訂小学国史の指導精神.高2』

GHQが焚書処分した本の中で、彼らがどのような意図をもって戦後の日本人に読めなくしたかが一番わかりやすいのが、わが国の歴史に関する通史を戦後の一般的な通史と読み比べることだと思う。  戦前・戦中の歴史書でGHQが焚書にした本といえば、「軍国...
開国前後

『日米通商修好条約』が無勅許で調印された経緯

ハリスの演説後老中堀田正睦は外国掛の井上清直、岩瀬忠震に通商条約交渉を開始させ、条文が完成すると、調印の前に勅許を得ようとしたのだが、孝明天皇に却下されてしまった。その後彦根城主の井伊直弼が大老職に就き、下田にいたハリスにアロー戦争で英国が清国に大勝し、その勢いで日本に向かうとの情報が齎される。岩瀬忠震らは井伊大老に無勅許での調印を迫り、井伊はやむを得なければ調印も可と返答した。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した日本及び世界の政治・政策に関する書籍

GHQの焚書リストのなかから、本のタイトルに「政治」「政党」「政界」「政略」「統治」「政策」「国策」が含まれる書籍を集めてみました。全部で228点ありますが、そのうち102点が「国立国会図書館デジタルコレクション」でネットで公開されており、...
開国前後

ハリスが下田に来航後、なかなか通商条約談判を行うことが出来なかった経緯

ハリスは1855年に初代駐日領事に任命され、さらに通商条約締結のために翌年8月下田に来航した。しかし下田奉行は『日米和親条約』を理由に米領事の駐在を認めなかった。ハリスは粘って当面の滞在を許されたが、英国が日本と通商条約交渉を行う動きやアロー号事件の情報をオランダより入手し、老中首座・堀田正睦はハリスを上京させ、通商条約の審議を開始させた。
ご連絡など

『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』の感想文紹介

【Sさんの感想文】…私の元上司Iさんに届いたメール 『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を読んで「まず、序章でびっくりさせられます。目から鱗とはこのことで、日本人が奴隷として売買されていたなど全く知りませんでしたし、...
開国前後

ロシアと交戦していた英国との条約交渉と、わが国に海軍創設を提案したオランダ

1854年にイギリスの軍船が長崎に入港し、もしロシア艦が日本の港内にあれば攻撃することの許可を得たいとの上申書を提出した。長崎奉行・水野忠徳はイギリスも外交交渉に来たものと考えて条約交渉を開始し、日本の沿岸地域や港近辺が戦場とならないようにした。またオランダのファビウスは日本にも海軍を創設することを幕府に提案した。
開国前後

『日露和親条約』締結後閣老から出された無理難題と、ロシア使節の帰国問題

1855年に日露和親条約が締結され、船を失ったロシア使節は日本が建造したヘダ号やアメリカ船に分乗し帰国した。プチャーチンは日本の対応に感謝し二度にわたりロシアは幕府に感謝状を贈っている。明治二十年にはプチャーチンの娘・オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れている。
開国前後

プチャーチンの交渉スタンスが変わり『日露和親条約』が調印されるに至った事情

当時ロシアはクリミア戦争の最中で、プチャーチンはディアナ号単艦で日本に向かった。下田で第一次の談判が行われた翌日に安政東海地震が起こり、ディアナ号は津波で大破した。戸田村で修理することとなったが曳航途中で沈没し、日本の船大工を使ってロシア人指導のもと、西洋型帆船にとりかかった。プチャーチンは日本側の対応に感激し、以後の交渉はスムーズに進んで、日露和親条約の調印に至る。
ご連絡など

電子書籍版の『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』のデータの修正の件

先月末に、拙著の電子書籍版の発売が開始されましたが、多くの方に購入いただき、Amazonの新着ランキングで4月1日の朝には日本史部門で第2位にランキングされていることにびっくりしました。このランキングは紙書籍と電子書籍の新刊本の売上点数の順...
開国前後

吉田松陰がペリーの乗るボーハタン号に向かったのは何のためであったのか

嘉永七年三月三日に全十二条からなる日米和親条約が締結され、その後和親条約の細則を固めるために、伊豆国下田の了仙寺に日米の交渉の場が移されている。そして三月二十七日に吉田松陰と金子重之輔はペリーの乗る軍艦に向かって小舟を漕ぎ、深夜に辿り着くもペリーは二人の海外渡航の希望を受け入れなかった。
開国前後

幕府に鉄道模型や電信機などを贈ったペリーとその後の幕府との交渉の行方

ペリーは日本との交渉を有利に進めるために大量の贈物を用意し、嘉永七年二月十五日に幕府側の委員に渡している。特に蒸気機関車の模型や電気通信機などには日本人は強い関心を持った。幕府もその返礼として、漆器類、陶器類、米などのほか火縄銃、日本刀、通貨などを贈っている。以後の交渉で、ペリーは要望していた即時開港をあきらめている。
ご連絡など

『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』の電子書籍化の御案内

電子書籍化  拙著『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が発売されてほぼ1年が経ちましたが、先日ご案内させていただきました通り3月31日よりAmazon Kindle ストア、及び楽天kobo電子書籍ストアで電子書籍の...
開国前後

日米和親条約の締結とその和文・英文の重大な相違点

米初代大統領の誕生日に百発の祝砲が放たれたのち会見の場所が横浜に決定した。幕府は石炭、薪水、食料の供給や破船の難民救助については了解し、開港については議論を先延ばそうとしたのだが、ペリーは早期に五港を開くことを要求し、協議の結果下田と箱館二港の開港が決定した。日米和親条約が締結されたが、領事設置の条件に関わる11条については英文と和文で意味が異なっている。
開国前後

二度目のペリー来航が、約束していた時期より随分早まった経緯

ペリーの二度目の来日はかなり早まった。それはロシアのプチャーチンが長崎に来訪したとの情報を掴んだことによる。琉球ではオランダの総督より書状が届き、将軍が崩御したため幕府の要望により再来日を遅らせて欲しい旨が書かれていたが、ペリーは無視して江戸に向かう。江戸湾に入り艦隊を碇泊させ、幕府は浦賀で会見を行う旨主張したがペリーは拒否し、結局碇泊場に近い横浜村で行うことになった。
開国前後

久里浜会見の後ペリーはどう動き、幕府は開国の問題をどう解決しようとしたか

久里浜会見の後ペリー艦隊は東に向かい、三日間にわたり堂々と江戸湾を測量して琉球に向かった。琉球では強引に交易の自由を認めさせ、用地を取得して貯炭場を完成させている。一方幕府では米国大統領国書にどう対応するか意見が募られ、国防力を高めるために品川沖に海上砲台が建設され、軍艦の建造が奨励された。
開国前後

嘉永六年(1853年)のペリー浦賀来航

ペリー艦隊は戦闘準備を整えて嘉永六年六月三日に相模湾に入った。幕府役人は長崎に廻航する旨要請するも、ペリーは大統領の国書を将軍に渡すので長崎に向かう意思はなく、この文書を受納すべき人物を選任しないなら、武力をもって上陸し捧呈すると強硬に主張した。老中阿部正弘は戦争を回避するために国書を受取る判断を下した。
ご連絡など

『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が紀伊国屋書店の10店舗に常備陳列されます

拙著が常備陳列される店舗のリスト  拙著『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が発売されて11か月が過ぎましたが、出版社より連絡があり、紀伊国屋書店の下記10店舗に、拙著が令和2年3月より1年間常備陳列されるようになっ...
開国前後

オランダはペリー来航前に日本・米国に対してどう動いたのか

1844年のオランダ国王の親書で、わが国がいつまでも国を閉ざすことは難しく、開国することを勧めたが江戸幕府は受け入れなかった。1852年にはペリー来航直前にオランダは日本に開国を勧奨し、アメリカにも書状を送るなどして日米交渉の橋渡し役を演じようとしたが失敗した。オランダの忠告は両国には通じなかったが、結果として武力衝突なく日米和親条約は締結された。
開国前後

ペリーには日本が抵抗すれば武力行使を行う権限が与えられていた

蒸気船が発明され、アメリカはハワイ・日本を給炭地として経由する太平洋航路の開拓に向かおうとした。ペリーの日本遠征目的は決して武力的侵略ではなかったが、もし日本が拒絶する場合には武力行使を行って、琉球及び小笠原諸島などを占領して海軍の根拠地を作り、シナに至る戦略上の要衝の地をアメリカの手で押さえる方針があり、ベリーには武力行使の権限が与えられていた。
開国前後

船上で暴動を起こし石垣島に上陸した中国人苦力(奴隷)の話~~1852年ロバート・バウン号事件

1852年に米国のロバート・バウン号に乗っていた中国人苦力(奴隷)たちが船長と船員を殺害し、石垣島崎枝村沖合で船が座礁すると380人の苦力が島に上陸した。その後英米の武装した兵士により80名の苦力が捕獲され約百名が殺害された。石垣島の観音崎には、この地で犠牲になった中国人苦力のために建立された唐人墓がある。
GHQ焚書

GHQに焚書処分された、「文化」をタイトルに含む書籍リスト

GHQによって焚書処分された書物の中から、タイトルに「文化」を含む書籍70点のリストを作成しました。  日本文化に関わる書籍だけでなく、中国、東南アジアやドイツ、イタリア、ソ連など多くの国の文化に関わる書籍が含まれています。 タイトル著者・...
GHQ焚書

GHQに焚書処分された「戦記」「軍記」など

今回はGHQに焚書処分された書籍のうち、「戦記」や「従軍記」と思われる147冊のリストを作成しました。中には外国人の著作もあります。  画像はドイツ人のフランク・ティースが書いた『ツシマ』で、日露戦争の日本海海戦の事が書かれている本です。な...
明治時代

中国人の奴隷225名全員を解放させた明治日本~~マリア・ルス号事件

建前上は苦力は自由意思による渡航移民だが、実態は奴隷とほとんど変わらなかった。明治五年に中国人苦力を載せた船が修理のために横浜港に入港したが、海に逃亡しようとした苦力が英国軍艦に救助されたところ明らかな虐待があったことが神奈川県庁に伝えられ、外務卿副島種臣は国内法で裁くことを妥当とし、神奈川権令大江卓は奴隷契約は無効であり、苦力全員解放する判決を下している。
GHQ焚書

GHQにより没収・廃棄された個人の伝記など

GHQ焚書リストの中で、本のタイトルに「伝」という文字があるか、個人名がある本をリストアップしてみました。時代が時代だけに軍人を顕彰する本が多いのはやむを得ませんが、GHQは歴史上の人物や外国人に関する著作も多数焚書処分しています。外国人に...
開国前後

わが国が中国やインドのようにアヘンに毒されなかったのはなぜなのか

安政五年にアメリカと締結した日米修好通商条約の第四条にアヘン輸入禁止条項がある。同年に他の四カ国と結んだ通商条約にもこの条項が設けられている。この条項があることにより、明治10年にわが国にイギリスの商人がアヘンを持ち込んだことが発覚し、通商条約違反で訴えることができて世論も盛り上がった。日本を救ったこの条項は、アメリカのハリスの提案によるものである。
中国

アヘン戦争、アロー号事件のあとイギリスが中国に押しつけた不平等条約

インド産アヘンの最大の輸出先は中国であった  前回の記事で、イギリスがインドを世界最大のアヘンの生産地としたことを書いた。アヘンはインドでは幼児の頃から吸引することが推奨されていたが、大半のアヘンは外国に輸出され、最大の輸出先はシナ(中国)...
欧米の植民地統治

GHQにより没収・廃棄されたアヘン戦争、アロー号事件に関する書籍リスト

戦後GHQは多くの書籍を没収廃棄しましたが、戦勝国にとって都合の悪いことが書かれた書物がかなりの割合に及ぶことが分かります。  イギリスのインド統治についてもそうですが、アヘン戦争やアロー号事件はイギリスにとっては隠したい真実であり、これら...
欧米の植民地統治

GHQに没収・廃棄された、「侵(略)」「統治」「支配」「搾取」の文字をタイトルに含む本

GHQが戦後の日本人が読めないように没収・廃棄した様々な書物の中から、「侵(略)」「統治」「支配」という文字をタイトルに含む本を40冊リストアップしてみました。
英領インド

アヘンをインド人に奨励したイギリス

イギリスはインドを世界最大のアヘン産地とし、約半分をインドで消費させるために、インド人にアヘンの消費を推奨した。子供たちは二歳になるまでにアヘンを飲まされ、そのため多くの子供は死に、平均寿命はわずかに26歳であった。イギリスはアヘンの有害性を認識していたが、単に財政上の理由ではなく、インド弱体化のためにアヘンを用いたと考えられる
GHQ焚書

GHQに焚書処分された年報・年鑑・要覧・統計など

GHQが戦後の日本人に読ませないように没収・廃棄した書物の中には、毎年出版される年報・年鑑・要覧・統計などが、結構あります。このような書物は主義主張をせず、できるだけ統計や客観的事実にもとづいて書かれるのが普通だと思います。今回は、焚書処分...