神社仏閣庭園旧跡巡り

滋賀

見ごたえある湖南三山の文化財と美しい紅葉

「湖南三山」というのは、湖南市に位置する天台宗の古刹でである「善水寺」「長寿寺」「常楽寺」の総称で、いずれも創建は奈良時代に遡るとされており、国宝や重要文化財の本堂・仏像などが多数見学できるばかりでなく、紅葉の名所でもある。特に善水寺の本堂の内陣に安置されている仏像はすごい迫力で、これだけ貴重な仏像が間近に鑑賞できる寺は少ない。
滋賀

湖東三山と教林坊、永源寺の紅葉を楽しんで

滋賀県の琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西の山腹に湖東三山と呼ばれる三つの天台宗寺院がある。北から西明寺、金剛輪寺、百済寺と並ぶのだが、いずれも滋賀県の紅葉名所である。湖東地区には外にも永源寺や近江八幡市にある教林坊など紅葉で有名な古刹があり、一日で巡ることができる。
京都

大原寂光院から八瀬童子の里八瀬へ、そして紅葉名所・蓮華寺へ

建礼門院徳子は平清盛の娘で、高倉天皇の中宮となり安徳天皇の生母となるが、壇ノ浦の戦いで平家一族は滅亡し、徳子は京へ送還されたのち出家して寂光院に移り住んだ。大原の南に八瀬がある。この地の人々は代々朝廷の駕輿丁を勤め租税も免じられていて、明治天皇・大正天皇の葬送で棺を載せた輿を担いだ。近くに紅葉の名所蓮華寺がある。
京都

紅葉の盛りに京都大原の古刹を尋ねて

江戸時代の『都名所図会』に大原三千院の名前がない。調べるとこの寺は、明治四年に京都御所周辺の寺町広小路から大原に移り、三千院と改称していることがわかった。今の三千院の場所には天台宗が大原の寺を統括する施設があったという。昔の大原は天台声明(しょうみょう)が盛んで、来迎院や勝林院がその中心地であった。
京都

福知山市にある元伊勢三社から紅葉で名高い古刹・天寧寺、長安寺を訪ねて

伊勢神宮内宮の御祭神である天照大御神は、崇神天皇六年から約九十年ほど鎮座地を求めて各地を転々とし、そのあいだ一時的にせよ内宮あるいは外宮が祀られていたという伝承を持つ神社のことを「元伊勢」と呼ぶ。福知山には元伊勢三社と呼ばれる神社があり、それぞれを巡ったのち、紅葉で有名な天寧寺、長安寺を訪れた。
京都

紅葉の季節に京都府北部の古刹を訪ねて

京都府の北部地方の国宝や重要文化財を訪ねて、4つの古刹を拝観してきました。 綾部市の安国寺は紅葉の名所で、足利尊氏ゆかりの寺です。そのあと、京都北部にある唯一の国宝建築物がある光明寺を訪ね、舞鶴市の松尾寺と金剛院を巡ってきました。紅葉を楽しめただけでなく、貴重な文化財を多数拝見することが出来ました。
大阪

国史跡日根荘に残された国宝慈眼院多宝塔から七宝瀧寺などを訪ねて~~泉南の神社仏閣その2

国史跡の日根野に慈眼院と日根神社があり、伝承によるといずれも秀吉の紀州攻めで焼かれたとされている。更に山に入ると火走神社があり、さらに進むと七宝瀧寺がある。この寺も秀吉の紀州攻めで焼かれたと伝わっている。なぜこんな山奥の寺までが焼かれたのだろうかと誰でも疑問に思うところだ。
大阪

秀吉の紀州攻めで焼かれたとされる古寺を訪ねて~~泉南の神社仏閣その1

泉南地区の大威徳寺、神於寺、孝恩寺、水間寺を巡って来たが、いずれも秀吉の紀州攻めの際に焼かれた伝承が残されている古刹である。しかしながら、根来衆の防衛ラインの最も東にあった千石堀城の戦いでは城内の根来衆は全滅している。防衛ラインよりも東や北側の寺が焼かれているはなぜなのか。イエズス会のフロイスの記録に着目したい。
和歌山

種子島に伝来した鉄砲一挺を持ち帰った根来寺のこと

種子島に伝来した2挺の鉄砲のうち1挺を、根来寺の「杉ノ坊某」が持ち帰ったことが『鉄炮記』に記されているが、種子島だけでなく根来でもそれぞれ同様な時期に鉄砲の複製品の製作に成功し、その後大量生産を開始している。根来寺では根来衆の鉄砲隊が組織されたが、秀吉の紀州攻めで敗れ、根来寺も滅亡した。
京都

桂離宮周辺の名所を巡る~~~松尾大社、月読神社、華厳寺(鈴虫寺)、地蔵院(竹の寺)

せっかく桂離宮に来たので、近くの寺を巡って来た。平安時代に製作された神像(国重文)がある松尾大社、松尾大社の摂社であるが松尾大社より古い歴史を持つ月読神社、「鈴虫寺」の名で親しまれていて「鈴虫説法」で評判の華厳寺、「竹の寺」とも呼ばれていて美しい景観の地蔵院。
京都

新緑の季節に桂離宮を参観して

桂離宮は八条宮初代智仁親王が別荘として造営を始められ、二代智忠親王が中書院、新御殿、松琴亭などを新増築され、庭園にも手を加えられて、ほぼ今日に見るような山荘の姿が整えられた。宮内庁のHPから申込み、参観許可通知の入手が必要。参観は有料だが無料の駐車場がある。
京都

修学院離宮を訪ねて

修学院離宮は明暦元年から二年にかけて、後水尾上皇によって造営工事が起こされ、万治二年頃に完成した山荘で、宮内庁のホームページから簡単に参観の申し込みが出来る。修学院離宮は上・中・下の三つの離宮からなり、総面積は54万5千㎡を超える雄大なものである。
京都

満開の背割桜とその歴史

先日背割桜を鑑賞してきた。明治時代まで木津川は淀付近で宇治川と合流していたのだが、水害が相次いだため改良工事が行われ、明治43年に現在の場所で合流するようになり、大正6年の洪水の後でこの背割堤が築かれ、後に桜が植えられた。1.4kmも続く満開の桜並木は見応え十分である。
廃仏毀釈・神仏分離

宮門跡の一つであった照高院が明治初期に失われたこと

男性皇族が出家して住職として居住する寺院を宮門跡というが、全国で十三あった宮門跡の寺院の一つであり伏見城の建物が移築されていた照高院は、明治の初期に取り壊されてしまった。跡地には石垣のみが残され、「照高院址」の石碑はなぜか別の場所に建てられている。
隠れキリシタン(茨木)

禁教の時代を乗り越えて信仰を繋いできた最後のキリシタン~~隠れキリシタンの里3

茨木市の千提寺地区には、江戸幕府が禁教令を出した以降三百年以上にわたり、秘密を守りながらキリスト教信仰を繋いでいた家があった。聖ザビエル像が発見された大正八年には4軒が存在し、大正15年にローマ教皇庁使節が最期の隠れキリシタンを訪ねた時は、中谷イトさんは「アヴェ・マリアのオラショ(祈り)」を披露したという。
隠れキリシタン(茨木)

聖フランシスコ・ザビエル像が北摂の山奥に残された経緯~~隠れキリシタンの里1

今から100年程前に、茨木市千提寺で聖フランシスコ・ザビエル像など貴重なキリシタン遺物が相次いで発見されている。このあたりはかつてキリシタン大名・高山右近が治めた地域なのだが、そののちキリスト教は禁教とされた。山深い地域で貴重な遺物が出てきた経緯を考えてみたい。
京都

北野天満宮界隈を歩く~~上七軒、千本釈迦堂(大報恩寺)、北野経王堂願成就寺

北野天満宮の東側に京都最古の花街である上七軒があり、その北に千本釈迦堂として知られる大報恩寺があり、その本堂は現存する京都最古の建物で国宝に指定されており、新霊宝殿には快慶の木造十大弟子像など貴重な仏像を鑑賞できる。また境内には北野経王堂がある。
京都

梅の咲く季節に北野天満宮を訪ねてその歴史と明治期の神仏分離を振り返る

北野天満宮の「梅花祭」に行ってきた。境内に植えられた約1500本の梅が見頃を迎えていて、平日とはいえ想像していた以上の人出だった。 明治初期の神仏分離以前は多宝塔や鐘楼や毘沙門堂、経蔵などが存在し、本殿には懸仏が掛けられ、天台宗の勤行がなされていた。
スポンサーリンク