イギリス

支那排日

支那の排日運動は英米が仕掛けて広がった 支那排日1

五四運動から支那の排日運動が始まった  支那の排日運動が本格化したのは大正八年(1919年)からなのだが、中国研究者の長野朗が昭和十七年に著した『支那三十年』に、支那で排日運動が起こった事情が記されている。長野は当時北京の中国人の家に一人で...
テーマ別焚書リスト

イギリスの旧植民地に関するGHQ焚書リスト

第二次世界大戦の始まる前は世界の大半の国が欧米列強の植民地であり、最も多くの植民地を従属させ所有していたのがイギリスである。下の画像は1921年の頃のイギリスの版図を示しているが、インドもオーストラリアもニュージーランドもカナダもイギリスの...
白柳秀湖

上海と明治維新  白柳秀湖『日本外交の血路』を読む6

引き続き白柳秀湖の『日本外交の血路』(GHQ焚書)を読み進んでいく。前回は、昭和七年三月に開かれた徳富蘇峰の古稀記念講演会の中で、白柳が「上海と明治維新」という演題で講演した内容の前半で、英仏米の三国が上海に共同租界を建設して支那経略の足掛...
白柳秀湖

幕末期における英米仏三国の動き  白柳秀湖『日本外交の血路』を読む5

引き続き白柳秀湖の『日本外交の血路』(GHQ焚書)の内容の一部を紹介させていただく。この本は白柳が雑誌などで発表して来た時局に関する論説を収録したものだが、昭和七年三月に開かれた徳富蘇峰の古稀記念講演会で彼が「上海と明治維新」という演題で講...
宣伝戦、思想戦、情報戦関連

支那と英国の宣伝戦に振り回される日本 新聞記事で読む宣伝戦3

再び支那の宣伝戦に襲われたわが国  前回記事で、満州事変勃発後直ちに支那は、満鉄を爆破したのは日本であるとの宣伝戦を開始したのだが、国連は支那のために積極的な手段を取らぬことを決議し、支那市場におけるシェア拡大を狙っていた英米も支那が期待し...
宣伝戦、思想戦、情報戦関連

第一次大戦終戦後の支那の排日 新聞記事で読む宣伝戦1

支那の排日を仕掛けたのは英米である  前回まで山中峯太郎の『日本を予言す』(GHQ焚書)のなかで、わが国が支那や英米やソ連の宣伝戦、思想戦に振り回されていたことが書かれている部分を紹介させていただいた。今のわが国の新聞とは違い、当時の新聞に...
山中峯太郎

『日本を予言す』(GHQ焚書)を読む その4

洗練されていないわが国の宣伝戦対応 ロンドン軍縮会議でイギリスの仕掛けた宣伝戦を報じる大阪毎日新聞 「神戸大学新聞記事文庫」軍事(国防)39-145 「宣伝戦」対策で、連合国主要国は第一次大戦勃発後に対外宣伝のための機関を組織したのに対し、...
山中峯太郎

山中峯太郎著『日本を予言す』を読む その2

中国大陸におけるコミンテルン・ソ連の対日戦略  前回に引き続き山中峯太郎の『日本を予言す』(GHQ焚書)を読み進んでいく。日本の戦後の歴史叙述ではほとんど触れられることのない、盧溝橋事件以降の中国大陸に於けるコミンテルンの動きについて、山中...
欧米の外交

フランス人が書いた英国の戦争方法~~『ヨーロッパの悲劇』を読む

イギリスの真の姿とはいかなるものかを描いた本  GHQは外国人の著作も数多く焚書処分したのだが、今回は『ヨーロッパの悲劇―英国の戦争方法―』という本を紹介させていただく。 著者のドクター・フランツ・グローセという人物についてはネットで調べて...
GHQ焚書

GHQが焚書処分した田中喜四郎の政治詩集を読む~~その1 『戦争と戦争』

GHQが焚書処分した詩集や句集には戦意高揚させるような作品が多いのだが、世界情勢や国内の情勢について記された詩集も存在する。今回は田中喜四郎という人物が著した『戦争と戦争』の中から、いくつかの作品を紹介させていただくこととしたい。  著者の...
GHQ焚書

『日英外交裏面史』(GHQ焚書)を読む~~その2

国際連盟と英国  前回に引き続き『日英外交裏面史』の中から、戦後の歴史叙述ではまず出てこないような解説をいくつか紹介したい。 1920年11月15日にジュネーブで開かれた国際連盟第1回会合(Wikipediaより)  「国際連盟」については...
GHQ焚書

柴田俊三『日英外交裏面史』(GHQ焚書)を読む~~その1

このブログの江戸幕末期に関する記事で、GHQに焚書処分された柴田俊三著『日英外交裏面史』という本の一節を三度ばかり紹介させていただいたのだが、もう少しこの本の内容を紹介させていただくことにしたい。  著者の柴田俊三がどういう人物であるかはよ...
共産主義関連

中国の排日運動がその後反帝国主義運動となり日本だけが排斥された経緯

中国の排日運動は、当初は英米が中国大陸から日本を排除する目的で仕掛けたものだが、中国大陸の赤化を狙っていたソ連が中国共産党に反帝国主義運動を始めさせ、最初にイギリス租界に鉾先を向けた。イギリスは租界を返還して反英の動きを止め、さらに蒋介石を抱き込んで、鉾先を日本に向けさせた。
義和団の乱から日露戦争

日露戦争開戦前後の欧州列強国の思惑

日露戦争に関する欧州列強のスタンスは様々であった。フランスは日露戦争に反対していたが、ドイツはロシアが鉾先をドイツではなく極東に向けるように日露戦争を仕掛けたと言って良い。独皇帝ウィルヘルム二世は露皇帝ニコライ二世に私信を送り、「朝鮮を獲れ」とけしかけている。イギリスは当初は日露戦争反対であったが、途中で方針を転換している。
義和団の乱から日露戦争

義和団の乱鎮圧に貢献し軍紀の厳正さにおいても世界から評価された日本軍

明治33年6月に北京の各国公使館区域が20万人を超えるという義和団に包囲され、さらに清軍が加わって列国に対して宣戦布告するに至った。公使館区域に残る約4千人を救出するため、各国が増援軍を派遣したが、約2万人の総兵力の半数が日本兵であった。8月14日に各国軍は北京に入城し籠城者を救出したが、日本軍の活躍とその軍紀の厳正さを世界が称賛した。他国軍は掠奪、暴行などの悪事が記録されている。
義和団の乱から日露戦争

義和団の暴徒に囲まれた北京の各国公使館区域全滅の危機

日清戦争に大敗した清国に対し、列強諸国が利権獲得に動き出した。自国の中を外国人勢力が跋扈するようになると、1899年に山東省に起こった義和団は「扶清滅洋」を唱えて排外活動を始め、それが瞬く間に清国全土に拡がっていった。攘夷主義者の西太后は、義和団に北京の公使館区域を襲わせたため、区域に住む約四千人が孤立無援の状態になってしまった。
戦争文化叢書

ソ連・コミンテルンによる中国の赤化工作を知る~~「戦争文化叢書」を読む6

前回に引き続き満田巌著『日本世界戦争』の文章を紹介したい。戦後に書かれた著作では、中国で民族運動が昂揚した背景にどこの国が関与していたかについて触れることは皆無に近いのだが、この書物には詳しく記されている。 ソ連・コミンテルンによる中国の赤...
朝鮮半島情勢と日清戦争

三国干渉に直面したわが国と主要国の動き

三国干渉を主導したロシア  日清戦争でわが国は世界の予想を裏切って清に圧勝し、講和談判が下関で行われて、明治二十八年(1895年)四月十七日に講和条約(下関条約)が調印された。  この条約によって清国はわが国に①朝鮮の独立②遼東半島・台湾・...
戦争文化叢書

第二次世界大戦が勃発した頃の世界の関係とイギリスの戦略的外交~~「戦争文化叢書」を読む5

今回紹介するGHQ焚書は戦争文化叢書 ; 第12輯の満田巌著『日本世界戦争』である。 著者の満田巌については何冊か著作を残しているが、どんな人物かと調べていると、 夫人の満田道子さんが『わかれ霜』 という歌集を出していることが分かった。内科...
戦争文化叢書

戦前においても日本を軽視する知識人が少なくなかった要因と、学ぶべき国民の歴史~~「戦争文化叢書」を読む4

GHQによって世界創造社の『戦争文化叢書』のシリーズの大半が焚書処分されたのだが、今回はアジア問題研究所編『支那人は日本人なり』という変わったタイトルの本の一部を紹介したい。この本はわが国の歴史について、戦後の歴史叙述などには見出しがたい、...
戦争文化叢書

イギリスの伝統的な植民地統治手法である「分割統治」とは~~「戦争文化叢書」を読む3

前回に引き続き、戦争文化叢書 第25輯の『英国の世界統治策』を読み進もう。 この本の第三章は「分割して支配する」だが、わかりやすく言えば、ある者が統治を行うにあたり、被支配者を分割することで統治を容易にする手法である。英国はこの手法で世界各...
朝鮮半島情勢と日清戦争

朝鮮半島を狙ったロシア・イギリスと李氏朝鮮の国情

甲申事件の後明治十八年に日清間で締結された天津条約によって日清両軍は朝鮮より撤兵したが、今度はロシアや英国が朝鮮半島に進出しようとし、英国は巨文島を占領した。朝鮮国の近代化を図ろうとした朝鮮独立党の金玉均は甲申事変ののち日本に亡命したが、のちに上海に呼び出されて暗殺された。この暗殺に清国政府が関わっていたことは明らかであり、日本国内で暴支膺懲の声が高まった。
戦争文化叢書

イギリスこそが世界最大の侵略国だった~~「戦争文化叢書」を読む2

前回はに引き続き、GHQが大半の書籍を焚書処分した世界創造社の「戦争文化叢書」の中から、今回は『英国の世界統治策』(GHQ焚書)という本を紹介させて頂きたい。 イギリスは如何にして植民地を獲得したのか  この本の第一章は「如何にして植民地を...
戦争文化叢書

支那事変でわが国が「敵国」と認識していたのはイギリスだった~~「戦争文化叢書」を読む1

大半がGHQに焚書処分された『戦争文化叢書』  昭和十四年(1939年)から十六年(1941年)にかけて、世界創造社という出版社から『戦争文化叢書』というシリーズ本が出版されている。全部で三十五冊の本が刊行されているのだが、そのうち二十九冊...
国会図書館デジタルコレクション

戦前・戦中に出版されたわが国の外交に関する本を読む~~『日英外交裏面史』、『日支交渉史話』

「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されている、外交に関する本には興味深いことが書かれている本が多い。  最初に紹介する本は、GHQ焚書の柴田俊三 著『日英外交裏面史』の一節だが、戦後の通史などでは絶対に採りあげないことが記さ...
GHQ焚書

マレー、シンガポールに関するGHQ焚書を読む~~『昭南島』『昭南島の日章旗:マレー戦線従軍記録』

イギリスはなぜシンガポールに大要塞を築いたのか~~室賀信夫著『昭南島』  昭和十七年二月にシンガポールの戦いで日本軍が勝利したことにより日本による統治が始まり、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」とその名を改められたのだが、昭和二十年...
欧米の植民地統治

ミャンマー(旧ビルマ)の歴史をGHQが封印した理由~~『ビルマ読本』

ミャンマーは、今年に入って国軍がクーデターを起こし、アウンサンスーチー国家顧問らを拘束したニュースが流れたが、この国はかつてビルマ国と呼ばれイギリスの植民地であった。  日中戦争で重慶の蒋介石政権を追い込むことができずにいた日本軍は、援蒋ル...
GHQ焚書

英国が中国に排日運動を焚きつけ、国際連盟を利用し我が国の孤立化を図った事情~~石丸藤太『大英国民に与う』

石丸藤太(いしまる とうだ)は明治四十三年に海軍砲術学校教官となり、大正四年に少佐となって予備役になると、評論活動に入り多くの著作を残したのだが、GHQは彼の13点もの彼の著作を焚書処分している。 今回は昭和11年に刊行された『大英国民に与...
欧米の植民地統治

GHQが戦後の日本人に封印したイギリスのインド統治方法について書かれた本~~『英帝國敗るるの日』

以前このブログで、かつて豊かであったインドが、イギリスの植民地となって以降富が奪われて行ったことを書いたのだが、戦後の日本人はイギリスという国は紳士の国だと学校で教わり、イギリスがそのようなひどいことをしたことはマスコミなどでも伝えられるこ...
欧米の植民地統治

GHQが戦後の日本人に封印したオーストラリアの歴史書など~~宮田峯一『濠洲連邦』

GHQの焚書リストを見ていると、なぜこんなテーマの書籍を没収廃棄を命じたのかと思われるタイトルの本がかなりあるのだが、オーストラリアに関する歴史書がなぜ封印されたかについては、実際に読んでみるとよく理解できる。多くの焚書本に書かれていること...
GHQ焚書

GHQに焚書処分された英国関連書籍~~松井賢一『打倒英国』

GHQは戦後の日本人に読めないように、市場で流通していた7千点以上の書籍を没収廃棄したが、その中身を見ると外国に関するものが大量に存在する。これ等の書物には、戦勝国にとって都合の悪い史実が満載で、多くの人に読んで頂きたい本がかなりある。  ...
GHQ焚書

GHQが焚書処分した外国人の本、及び外国語で出版された本~~『虐げられし印度』、 『国防と朝鮮人』

第二次世界大戦後日本へ進駐してきたGHQ( 連合国軍総司令部 )が、昭和二十一年から二十三年(1946~48年)にかけて、当時わが国で流通していた書籍のうち7769タイトルの単行本やパンフレットを「宣伝用刊行物」と呼んで没収・廃棄し、戦後の...
欧米の植民地統治

GHQに没収・廃棄されたアジア・東洋をタイトルに含む書籍~~『大東洋の危機 : 英国よアジアより手を引け』

第二次世界大戦が起きる前のアジアは、タイ国と日本を除いてはすべてが欧米列強の植民地であった。彼らの植民地統治が如何なるものであったかは戦後の日本人にはほとんど知らされていないが、戦前の日本人は欧米に侵略され続けてきたアジアの歴史について解説...
幕末と英仏の動き

薩長を支援したイギリスと、幕府に接近し助言し続けたフランス

フランス公使のロッシュは就任早々幕府と親交を深め、幕府からの要請を受けて製鉄所・造船所建築の為の技師や、軍事顧問団を派遣し、パリ万博に参加を推薦したり、イギリスの動きをいち早く幕府に伝えその対応策まで伝授している。徳川慶喜が兵庫港開港を決断したのもロッシュの献策による。イギリス外交官のサトウは、兵庫開港が実現すると革命のチャンスを失うと西郷にけしかけている。
幕末と英仏の動き

薩長に接近したイギリスは討幕に関与したのか、しなかったのか

アーネスト・サトウは慶応二年四月にジャパン・タイムスに『英国策論』を発表し、和訳されて広く読まれた。そこには天皇を元首とする諸大名による連合政権樹立を唱えている。その後のイギリスの対日政策は、本国からは中立を保持することを指示してきたが、パークス公使等は『英国策論』のシナリオ通りの路線を進めている。
攘夷の実行と諸外国の動き

兵庫開港と条約勅許等を求めて軍艦九隻を大阪湾に送り込んだ四ヵ国連合~~下関戦争3

1865年7月に第二代公使のパークスが着任した当時、英国は下関戦争の講和にあたり、幕府下関開港ではなく償金支払いを選んだことに不信感を持っていた。英国は下関開港を望み、長州藩もそれを了解していたのだが、幕府は関税収入が長州に入ることを望まなかった。英国は幕府が償金の支払延期を申し出て来たのを機に、九隻の軍艦を大阪湾に向けて兵庫開港、条約勅許、関税引下を迫っている。
攘夷の実行と諸外国の動き

英米仏蘭四ヵ国艦隊による下関砲撃と三百万ドルの賠償金支払要求~~下関戦争2

英仏蘭米四ヵ国で長州膺懲を決意した英国公使のオールコックは、キューパー提督に送り出動を要請し四ヵ国十七隻の艦隊は横浜から下関を目指した。元治元年八月五日に連合艦隊の砲撃が開始され、八日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。講和が始まり三百万ドルの償金支払いについてオールコックははじめから幕府に支払わせる腹積もりであった。
攘夷の実行と諸外国の動き

攘夷を続ける長州藩の攻撃を決意し四カ国艦隊を下関に向かわせた英公使~~下関戦争1

攘夷実行期日が決定すると、幕府は諸港を閉鎖して外国人を追い出そうとし、長州藩は攘夷の先鋒となるべく関門海峡を通航する外国船に砲撃を加えはじめ、関門海峡が実質的に閉鎖されてしまう。イギリス公使オールコックは米仏蘭の公使と協議し、長州藩に武力行使して海峡の安全な通行を計ろうとした。
攘夷の実行と諸外国の動き

英国艦隊に多大の損傷を与え上陸を許さなかった薩摩が、英国との和解交渉を進めた理由~~薩英戦争3

薩英戦争で英艦隊は薩摩軍の砲撃をまともに受け多くの犠牲者が出たために、上陸することもなく錦江湾を去った。薩摩藩はたまたま戦果をあげることができたが、藩の中からこの戦いを冷静に振り返り、兵器の格差は歴然としており、次回では勝てる見込みがなく英国と和解しようとする動きが出て来た。和解は成立し、薩摩は幕府から借りた金で賠償金を支払った。
攘夷の実行と諸外国の動き

薩摩軍の砲撃で多くの戦艦に損傷を受け、上陸せずに退却した英艦隊~~薩英戦争2

文久三年七月一日、国書に対する薩摩藩の回答に納得できないニール代理公使は、軍事力行使を決意し、湾内の藩船三艘を拿捕し掠奪を開始した。すると薩摩藩の大砲が火を噴き、対戦準備が整っていない英艦船の大半が大砲の直撃を食らっている。英艦は大砲から距離をとり、薩摩の砲台を破壊していったが、人的被害は英国軍の方が大きく、翌日英艦隊は上陸せずに横浜に向かった。
攘夷の実行と諸外国の動き

薩摩藩は七隻のイギリス艦船を奪い取り、代理公使を捕虜にしようとした~~薩英戦争1

幕府との交渉を成功させたのち、ニールは7隻の軍艦とともに鹿児島に向かい、薩摩藩に生麦事件の実行犯の処刑と賠償金獲得を要求したが、薩摩藩はいずれも応じず、わが国で合法な行為が認められない条約を締結した幕府に責任があると回答した。武力行使を決意したニールは報復措置として湾内の汽船を拿捕を開始したが、薩摩藩の設置した全砲台が英艦に向かって火ぶたを切った。
攘夷の実行と諸外国の動き

生麦事件の償金を得るための英国の砲艦外交と、攘夷実行を迫られていた幕府の対応

生麦事件のあと英代理公使のニールは、本国からの指令に基づき賠償金10万£の支払いを薩摩藩ではなく幕府に求め、横浜港に12隻の大艦隊を集結させ、拒絶する場合は武力行使を明言し圧力をかけた。その時将軍家茂は攘夷実行の期限を約束することを迫られており、老中小笠原長行は英国が武力行使する寸前に賠償金を支払った。
攘夷の実行と諸外国の動き

外国人襲撃事件が頻発する中で起きた生麦事件と英国人らの反応

坂下門外の変後幕府は閣老らを大幅に入れ替え、従来の格式を打ち破って参勤交代の頻度を減らすなど大名の負担を軽減し、朝廷の機嫌をとったりしたのだが、その結果幕府の力はさらに弱まり、過激分子が外国人を襲撃する事件が多発するようになった。生麦事件の後、幕府に対する外国人の不満が爆発し、薩摩藩に復讐する意見が盛り上がったのだが、ニール英国代理公使の発言で武力衝突が避けられた。
開国前後

ロシアと交戦していた英国との条約交渉と、わが国に海軍創設を提案したオランダ

1854年にイギリスの軍船が長崎に入港し、もしロシア艦が日本の港内にあれば攻撃することの許可を得たいとの上申書を提出した。長崎奉行・水野忠徳はイギリスも外交交渉に来たものと考えて条約交渉を開始し、日本の沿岸地域や港近辺が戦場とならないようにした。またオランダのファビウスは日本にも海軍を創設することを幕府に提案した。
中国

アヘン戦争、アロー号事件のあとイギリスが中国に押しつけた不平等条約

インド産アヘンの最大の輸出先は中国であった  前回の記事で、イギリスがインドを世界最大のアヘンの生産地としたことを書いた。アヘンはインドでは幼児の頃から吸引することが推奨されていたが、大半のアヘンは外国に輸出され、最大の輸出先はシナ(中国)...
欧米の植民地統治

GHQにより没収・廃棄されたアヘン戦争、アロー号事件に関する書籍リスト

戦後GHQは多くの書籍を没収廃棄しましたが、戦勝国にとって都合の悪いことが書かれた書物がかなりの割合に及ぶことが分かります。  イギリスのインド統治についてもそうですが、アヘン戦争やアロー号事件はイギリスにとっては隠したい真実であり、これら...
英領インド

アヘンをインド人に奨励したイギリス

イギリスはインドを世界最大のアヘン産地とし、約半分をインドで消費させるために、インド人にアヘンの消費を推奨した。子供たちは二歳になるまでにアヘンを飲まされ、そのため多くの子供は死に、平均寿命はわずかに26歳であった。イギリスはアヘンの有害性を認識していたが、単に財政上の理由ではなく、インド弱体化のためにアヘンを用いたと考えられる
英領インド

かつて豊かな国であったインドがいかにしてイギリスに富を奪われていったのか

ムガール王朝のシャー・ジャハーンの治世はインド・イスラム文化が花を開き豊かな国であったのだが、イギリスがインド全域における覇権を確立した後1765年にベンガル地方の徴税権を獲得すると、インドを搾取するようになり、インドの村落制度は崩壊し、農民を飢餓に追いやった。
英領インド

GHQが焚書処分したイギリスのインド統治に関する本には何が書かれていたのか

GHQが焚書処分にした、ラス・ビハリ・ボースの『インドの叫び』には、戦後の日本人に知らされなかった、イギリスのインド統治の実態が記されている。かっては読み書きできる国民が多かったが9割以上が文盲となり、重税が課されて毎年のように飢饉が起きた。1919年4月には無辜のインド人数百名が虐殺された。
欧米の植民地統治

イギリスのインド統治に関わるGHQ焚書のリスト

GHQは戦後七千点以上の書籍を日本人が読めないように没収廃棄しましたが、処分されたのは日本人の戦意を高揚させるような書籍は必ずしも多くなく、戦勝国にとって都合の悪い歴史が書かれた書籍の多くが処分されていることはあまり知られていません。  こ...