対外関係史

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朝鮮半島情勢と日清戦争

朝鮮半島を狙ったロシア・イギリスと李氏朝鮮の国情

甲申事件の後明治十八年に日清間で締結された天津条約によって日清両軍は朝鮮より撤兵したが、今度はロシアや英国が朝鮮半島に進出しようとし、英国は巨文島を占領した。朝鮮国の近代化を図ろうとした朝鮮独立党の金玉均は甲申事変ののち日本に亡命したが、のちに上海に呼び出されて暗殺された。この暗殺に清国政府が関わっていたことは明らかであり、日本国内で暴支膺懲の声が高まった。
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朝鮮半島情勢と日清戦争

開国後の朝鮮国をめぐる日本・清国の対立

日朝修好通商条規締結後の朝鮮は、金弘集の進言により積極的開国に転じるようになった。しかし1882年に旧軍兵が政権に不満を抱く下層市民を巻きこむ大暴動(壬午事変)が起き、この鎮圧を清国軍に頼ったことからその後ソウルに清国軍が駐留し、清国は軍事力を背景に宗主権の強化再編に乗り出した。金玉均らが清国に阿る守旧派一掃を企てて甲申事変を起こすが失敗した。
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GHQ焚書

支那事変でわが国が「敵国」と認識していたのはイギリスだった~~「戦争文化叢書」を読む1

大半がGHQに焚書処分された『戦争文化叢書』  昭和十四年(1939年)から十六年(1941年)にかけて、世界創造社という出版社から『戦争文化叢書』というシリーズ本が出版されている。全部で三十五冊の本が刊行されているのだが、そのうち...
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朝鮮半島情勢と日清戦争

江華島事件と李氏朝鮮の開国

明治八年に朝鮮国を開国させようとする交渉が難航したため、威嚇することを目的に五月に軍艦雲揚を釜山に向かわせた。その後九月に再び雲揚が情報収集で朝鮮半島に向かうと、江華島沖で朝鮮軍からの砲撃を受けた。日本軍は応戦し永宗島を陥れた。この事件を機に政府は黒田清隆を全権として条約締結に持ち込もうとした。
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GHQ焚書

戦前の日本人は主要国の外交政策をどう捉えていたか~~『少年満洲事変と上海事変』(GHQ焚書)を読む5

 今まで4回に分けて山県信敬 著『少年満洲事変と上海事変』(昭和11年刊)の内容を紹介してきたが、今回はその最終回で、著者が当時の主要国の外交姿勢について述べている部分を紹介したい。この本は青少年を対象に書かれている本であり非常に読みやす...
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GHQ焚書

満州国を攪乱したソ連と支那共産党~~『少年満州事変と上海事変』(GHQ焚書)を読む4

  ソヴィエト連邦の極東政策  今回も『少年満洲事変と上海事変』の文章を紹介したい。満州国が建国されたのち、極東の情勢がどのように変わったかについて、戦後出版された教科書などにはあまり記されていないのだが、昭和11年に青少年向...
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GHQ焚書

第一次上海事変はなぜ起きたのか~~『少年満州事変と上海事変』(GHQ焚書)を読む3

戦後の教科書ではなぜか触れることが少ない第一次上海事変  前回の記事で、昭和11年に出版された『少年満州事変と上海事変』に、満州事変勃発から満州国の成立についてどう記されているかを紹介した。今回は引き続き第一次上海事変についての解説...
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GHQ焚書

戦前の日本人の満州事変の理解を知る~~『少年満洲事変と上海事変』(GHQ焚書)を読む 2

柳条溝鉄道爆破事件  前回の記事で山県信敬 著『少年満洲事変と上海事変』で、満州事変の発端となった昭和六年(1931年)九月十八日の柳条溝事件が起きるまでの支那の国情について書いた。今回はその続きである。  萬寶山事件 に次...
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GHQ焚書

満州事変の前に何が起こっていたのか~~『少年満洲事変と上海事変』(GHQ焚書)を読む 1

満州事変についてのGHQ焚書の9割はネット公開されていない  本のタイトルから判断して満州事変に関する本は30点がGHQによって焚書処分されているのだが、そのうち「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されているのは3点の...
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征韓論から士族の反乱

大久保利通が台湾出兵を決断し、自ら清国との談判に臨み賠償金を獲得したこと

明治4年に宮古島の船が台湾に漂着して、船員の衣類が略奪され54名が虐殺される事件があった。その後も同様の事件が続き、台湾を膺懲せよとの世論が高まって行った。大久保利通は明治六年に征韓論に反対し、西郷隆盛らが下野する原因を作った人物だが、その4か月後に、木戸孝允の反対を押し切って征台論を主張し、台湾出兵を実行した。
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GHQ焚書

GHQが焚書処分したナチス研究書2~~末次信正著『日本とナチス独逸』

日独伊三国同盟はなぜ結ばれたのか  前回のこのコーナーで株式会社アルスが出版した『ナチス叢書』の大半が焚書処分されていることを書いたが、今回も『ナチス叢書』のなかから末次信正 著『日本とナチス独逸』(昭和十五年十一月刊)の一部を紹介...
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征韓論から士族の反乱

征韓論が生まれた背景と明治六年の政変

江戸時代に於ける李氏朝鮮との交渉は対馬国守の宗氏が窓口となり、釜山浦草梁に倭館が置かれて貿易などが行われていたのだが、明治維新後は新政府を交渉の窓口とすべく何度か使節を送ったのだが、当時の同国は大院君による極端な排外主義的政策がとられていて、わが国の使節は侮辱され、国書も斥けられる始末であった。わが国では征韓論が起こり、西郷隆盛は自らが丸腰で交渉に行くことを主張した。
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GHQ焚書

日米を戦わせるように仕向けた国はどこなのか~~武藤貞一『日米十年戦争』(GHQ焚書)

 これまで武藤貞一のGHQ焚書を3冊紹介してきたが、今回紹介する本は、第二次世界大戦でわが国がアメリカに宣戦布告した約半年前に出版された『日米十年戦争』(GHQ焚書)である。  奥付を確認すると、この本が出版された日は昭和十...
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GHQ焚書

日露戦争後に日米関係がどう動いたか~~福永恭助著『挑むアメリカ』(GHQ焚書)を読む

 福永恭助は海軍少佐で退役した後、小説や軍事に関する評論などの著作を残しているが、戦前・戦中の作品34点のうち12点がGHQによって焚書処分されている。 また、国立国会図書館デジタルコレクションでデジタル化されていながらネット公開されてい...
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国会図書館デジタルコレクション

戦前戦中に出版された沖縄に関する書籍を読む~~『沖縄よ何処へ : 琉球史物語』『ペルリ提督琉球訪問記』

 沖縄は、江戸時代以来薩摩藩の支配下にありながら、清国にも朝貢していたことが教科書で書かれていたが、もう少し詳しく知りたいと思って「国立国会図書館デジタルコレクション」で沖縄に関する書籍を探してみた。 伊波普猷  最初に紹介し...
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国会図書館デジタルコレクション

ネット公開されている歴史関連の児童書にGHQ焚書が少なくない~~「少年大日本史」「少年国史物語」など

 ネットでいろんな情報が収集できるようになって、本の出版が減少することになることはやむを得ないが、小学生から中高生の時期に読ませたいような本の出版が減っていることは残念なことである。 昔は少年少女向けに様々なジャンルのシリーズ本が出版され...
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GHQ焚書

ミャンマー(旧ビルマ)の歴史をGHQが封印した理由~~『ビルマ読本』

 ミャンマーは、今年に入って国軍がクーデターを起こし、アウンサンスーチー国家顧問らを拘束したニュースが流れたが、この国はかつてビルマ国と呼ばれイギリスの植民地であった。  日中戦争で重慶の蒋介石政権を追い込むことができずにいた日本軍...
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GHQ焚書

GHQが戦後の日本人に封印したフィリピンの歴史~~奈良静馬『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』

 今から六年ほど前に奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』という本を「国立国会図書館デジタルコレクション」で見つけて読んだときに、倭寇や豊臣秀吉に対する見方が変わってしまった。この本には、戦後の歴史...
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明治初年の外国人殺傷事件

天皇の謁見を賜う途上で起きたイギリス公使・パークス暗殺未遂事件

堺事件が解決した後、慶応四年二月三十日に天皇が各国公使を謁見することが決定し、英仏蘭の公使が御所に向かったが、英公使のパークスが皇居に向かう途中で難に遭った。パークスは中井弘蔵、後藤象二郎の奮闘で無事であったが、11名が負傷した。仏公使のロッシュは宴席でその情報を聞き、直ちにパークスを見舞いに行き、共に徳川を支援しようと声をかけたがパークスは断った。
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明治初年の外国人殺傷事件

神戸事件責任者処刑の六日後に起きた、土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件~~堺事件

神戸事件が解決後、今度は堺で土佐藩兵とフランス人とのトラブルが発生し、11名の若いフランス人が殺害される事件(堺事件)が起きている。堺の治安回復を任された土佐藩は内地旅行の免状がなければ外国人を堺に入れない方針をとり、堺港から上陸しようとしたフランス人を土佐藩兵が撃ちまくった。フランス公使は激怒し、新政府と交戦することを辞さない姿勢であった。
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明治初年の外国人殺傷事件

鳥羽伏見の戦いの数日後に神戸で起きた備前藩兵と外国軍との間の銃撃戦~~神戸事件

鳥羽伏見の戦いが終わった直後に、備前藩兵が今の三宮神社近辺で偶々この隊列を横切ろうとした外国人とトラブルが発生し、拳銃を構えた外国人に発砲したことから、外国軍も交えての銃撃戦が始まった。死者はなかったが、外国人は新政府に対し、責任者の厳罰を要求した。新政府は「開国和親」に舵を切り、備前藩に責任者の切腹を要求。瀧善三郎は全てを引受け、外国人の目の前で割腹し、この事件が解決した。
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戊辰戦争

英公使パークスの激怒と江戸城無血開城との関係

慶応四年三月十五日に江戸城を総攻撃することが決まり、木梨精一郎(長州藩士)が東海道先鋒参謀・西郷隆盛の命を受けて三月十四日に、横浜の英国公使館を訪ねている。木梨は、明日以降の傷病者の手当てをパークス公使に要請したのだが、パークスの怒りが爆発した。この怒りにより、江戸城総攻撃の中止とは無関係ではない。
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最後の将軍・慶喜の時代

倒幕派とイギリス、及び大政奉還の建白書を提出した土佐藩の動き

薩摩藩の倒幕派は英国パークス公使が慶喜を高く評価していることに危機感を覚えていて、西郷隆盛がサトウを挑発して英仏を離間させることに成功した。しかしながら、倒幕派には幕府を倒すだけの軍事力が不足しており、諸藩の大半が「佐幕勤王」であった。一方土佐藩では後藤象二郎が幕府が大政奉還を行う考えを述べるようになり、それが土佐藩の藩論となり将軍に建白書を提出することとなった。
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最後の将軍・慶喜の時代

フランスの指導により軍隊改造に取り組んだ幕府が倒幕派に勝てなかった事情

慶応二年六月より始まった第二次長州征伐の前に、長州藩は英国の武器商人グラバーより大量の最新鋭武器を入手している。この銃の銃身にはライフリングが施され、椎の実型の銃弾を用いるもので、射程距離は従来の銃の数倍あり命中精度も高かった。幕府軍は人数では長州軍を圧倒したが連戦連敗し、将軍慶喜はフランスの指導による軍制改革を決意したが、倒幕の機運の高まりを抑えきれなかった。
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最後の将軍・慶喜の時代

英国公使が幕府支持に傾いた理由と倒幕を急ごうとした在京の薩摩藩士

慶応三年一月に孝明天皇が崩御され、将軍・徳川慶喜は大坂城に四カ国の代表を引見し、その席で兵庫開港を含む条約義務の遵守を約束した。慶喜は各国公使から高く評価されたが、兵庫開港については薩摩藩の事前工作があり大揉めにもめたが、なんとか勅許を得た慶喜は、兵庫開港と大坂の開市に向け動き出した。一方在京の薩摩藩士は、兵庫が開港されるまでに幕府を倒す事を決したのである。
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幕末と英仏の動き

薩長を支援したイギリスと、幕府に接近し助言し続けたフランス

フランス公使のロッシュは就任早々幕府と親交を深め、幕府からの要請を受けて製鉄所・造船所建築の為の技師や、軍事顧問団を派遣し、パリ万博に参加を推薦したり、イギリスの動きをいち早く幕府に伝えその対応策まで伝授している。徳川慶喜が兵庫港開港を決断したのもロッシュの献策による。イギリス外交官のサトウは、兵庫開港が実現すると革命のチャンスを失うと西郷にけしかけている。
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幕末と英仏の動き

1867年パリ万国博覧会に薩摩藩は独立国として参加した

慶応三年に開催されるパリ万国博覧会に幕府は参加を決定し、各藩に参加を求めたところ薩摩藩と佐賀藩が応じたのだが、薩摩藩は独自の旗や勲章まで作成し、あくまで独立国として参加する準備を進めた。現地で幕府と薩摩藩は激論し結局幕府側は「大君政府」、薩摩藩側は「薩摩太守の政府」とし、ともに日の丸を掲げることで妥協したが、薩摩藩は幕府の権威を低下させることに成功した。
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幕末と英仏の動き

薩長に接近したイギリスは討幕に関与したのか、しなかったのか

アーネスト・サトウは慶応二年四月にジャパン・タイムスに『英国策論』を発表し、和訳されて広く読まれた。そこには天皇を元首とする諸大名による連合政権樹立を唱えている。その後のイギリスの対日政策は、本国からは中立を保持することを指示してきたが、パークス公使等は『英国策論』のシナリオ通りの路線を進めている。
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攘夷の実行と諸外国の動き

兵庫開港と条約勅許等を求めて軍艦九隻を大阪湾に送り込んだ四ヵ国連合~~下関戦争3

1865年7月に第二代公使のパークスが着任した当時、英国は下関戦争の講和にあたり、幕府下関開港ではなく償金支払いを選んだことに不信感を持っていた。英国は下関開港を望み、長州藩もそれを了解していたのだが、幕府は関税収入が長州に入ることを望まなかった。英国は幕府が償金の支払延期を申し出て来たのを機に、九隻の軍艦を大阪湾に向けて兵庫開港、条約勅許、関税引下を迫っている。
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攘夷の実行と諸外国の動き

英米仏蘭四ヵ国艦隊による下関砲撃と三百万ドルの賠償金支払要求~~下関戦争2

英仏蘭米四ヵ国で長州膺懲を決意した英国公使のオールコックは、キューパー提督に送り出動を要請し四ヵ国十七隻の艦隊は横浜から下関を目指した。元治元年八月五日に連合艦隊の砲撃が開始され、八日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。講和が始まり三百万ドルの償金支払いについてオールコックははじめから幕府に支払わせる腹積もりであった。
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攘夷の実行と諸外国の動き

攘夷を続ける長州藩の攻撃を決意し四カ国艦隊を下関に向かわせた英公使~~下関戦争1

攘夷実行期日が決定すると、幕府は諸港を閉鎖して外国人を追い出そうとし、長州藩は攘夷の先鋒となるべく関門海峡を通航する外国船に砲撃を加えはじめ、関門海峡が実質的に閉鎖されてしまう。イギリス公使オールコックは米仏蘭の公使と協議し、長州藩に武力行使して海峡の安全な通行を計ろうとした。
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攘夷の実行と諸外国の動き

英国艦隊に多大の損傷を与え上陸を許さなかった薩摩が、英国との和解交渉を進めた理由~~薩英戦争3

薩英戦争で英艦隊は薩摩軍の砲撃をまともに受け多くの犠牲者が出たために、上陸することもなく錦江湾を去った。薩摩藩はたまたま戦果をあげることができたが、藩の中からこの戦いを冷静に振り返り、兵器の格差は歴然としており、次回では勝てる見込みがなく英国と和解しようとする動きが出て来た。和解は成立し、薩摩は幕府から借りた金で賠償金を支払った。
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攘夷の実行と諸外国の動き

薩摩軍の砲撃で多くの戦艦に損傷を受け、上陸せずに退却した英艦隊~~薩英戦争2

文久三年七月一日、国書に対する薩摩藩の回答に納得できないニール代理公使は、軍事力行使を決意し、湾内の藩船三艘を拿捕し掠奪を開始した。すると薩摩藩の大砲が火を噴き、対戦準備が整っていない英艦船の大半が大砲の直撃を食らっている。英艦は大砲から距離をとり、薩摩の砲台を破壊していったが、人的被害は英国軍の方が大きく、翌日英艦隊は上陸せずに横浜に向かった。
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攘夷の実行と諸外国の動き

薩摩藩は七隻のイギリス艦船を奪い取り、代理公使を捕虜にしようとした~~薩英戦争1

幕府との交渉を成功させたのち、ニールは7隻の軍艦とともに鹿児島に向かい、薩摩藩に生麦事件の実行犯の処刑と賠償金獲得を要求したが、薩摩藩はいずれも応じず、わが国で合法な行為が認められない条約を締結した幕府に責任があると回答した。武力行使を決意したニールは報復措置として湾内の汽船を拿捕を開始したが、薩摩藩の設置した全砲台が英艦に向かって火ぶたを切った。
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攘夷の実行と諸外国の動き

生麦事件の償金を得るための英国の砲艦外交と、攘夷実行を迫られていた幕府の対応

生麦事件のあと英代理公使のニールは幕府と直接交渉することを選択し、本国からの指令に基づき賠償金10万£の支払いを幕府に求め、横浜港に12隻の大艦隊を集結させ、拒絶する場合は武力行使を明言し圧力をかけた。その時将軍家茂は京都で攘夷実行の期限を約束することを迫られていた。老中小笠原長行は三度回答期限を延長し、支払日を決めたが徳川慶喜が差し止め、英国が武力行使する寸前に支払った。
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攘夷の実行と諸外国の動き

外国人襲撃事件が頻発する中で起きた生麦事件と英国人らの反応

坂下門外の変後幕府は閣老らを大幅に入れ替え、従来の格式を打ち破って参勤交代の頻度を減らすなど大名の負担を軽減し、朝廷の機嫌をとったりしたのだが、その結果幕府の力はさらに弱まり、過激分子が外国人を襲撃する事件が多発するようになった。生麦事件の後、幕府に対する外国人の不満が爆発し、薩摩藩に復讐する意見が盛り上がったのだが、ニール英国代理公使の発言で武力衝突が避けられた。
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安政の大獄から桜田門外の変

無勅許で安政五カ国条約を締結したことと安政の大獄

安政の五カ国条約を無勅許で締結した幕府だが、実際に港の近くに外国人が居住するようになると攘夷熱が高まってきた。将軍継嗣問題で敗れた一橋派は、条約勅許問題で朝廷を巻き込み、井伊大老に圧力をかけようとした。「戊午の密勅」のあと井伊はその禍源が水戸藩にあるとにらみ、京都と江戸で尊攘派や一橋派の大名・公卿・志士などを捕縛し厳しく処罰していった。(安政の大獄)
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開国前後

将軍継嗣問題の対立が深まるなかで、相次いで無勅許で結ばれた安政五カ国条約

安政五年四月に日米修好通商条約の勅許取得に失敗した堀田正睦が江戸に戻ると、南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり幕府の主導権を握った。イギリスが通商条約締結のために日本に向かっているとの情報が入り、急遽日米修好通商条約を締結。その後蘭、露、英、仏と相次いでどう同様な条約を結んだが、勅許を得ずに調印を進めたことで朝幕間の対立が深まり、攘夷派の幕府攻撃が過激化した。
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開国前後

『日米通商修好条約』が無勅許で調印された経緯

ハリスの演説後老中堀田正睦は外国掛の井上清直、岩瀬忠震に通商条約交渉を開始させ、条文が完成すると、調印の前に勅許を得ようとしたのだが、孝明天皇に却下されてしまった。その後彦根城主の井伊直弼が大老職に就き、下田にいたハリスにアロー戦争で英国が清国に大勝し、その勢いで日本に向かうとの情報が齎される。岩瀬忠震らは井伊大老に無勅許での調印を迫り、井伊はやむを得なければ調印も可と返答した。
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開国前後

ハリスが下田に来航後、なかなか通商条約談判を行うことが出来なかった経緯

ハリスは1855年に初代駐日領事に任命され、さらに通商条約締結のために翌年8月下田に来航した。しかし下田奉行は『日米和親条約』を理由に米領事の駐在を認めなかった。ハリスは粘って当面の滞在を許されたが、英国が日本と通商条約交渉を行う動きやアロー号事件の情報をオランダより入手し、老中首座・堀田正睦はハリスを上京させ、通商条約の審議を開始させた。
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開国前後

ロシアと交戦していた英国との条約交渉と、わが国に海軍創設を提案したオランダ

1854年にイギリスのスターリング率いる四艘の軍船が長崎に入港し、もしロシア艦が日本の港内にあれば攻撃することの許可を得たいとの上申書を提出した。長崎奉行・水野忠徳はイギリスも外交交渉に来たものと考えて条約交渉を開始し、日本の沿岸地域や港近辺が戦場とならないようにした。またオランダのファビウスは日本にも海軍を創設することを幕府に提案し、早速海軍兵学校が創設された。
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開国前後

『日露和親条約』締結後閣老から出された無理難題と、ロシア使節の帰国問題

1855年に『日露和親条約』が締結され、船を失ったロシア使節は日本が建設したヘダ号やアメリカ船に分乗し帰国したが、最後の船はイギリス船に拿捕され、全員が捕虜になったと記録されている。プチャーチンは日本の対応に感謝し二度にわたりロシアは幕府に感謝状を贈っている。明治二十年にはプチャーチンの娘・オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れている。
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開国前後

プチャーチンの交渉スタンスが変わり『日露和親条約』が調印されるに至った事情

当時ロシアはクリミア戦争の最中で、プチャーチンはディアナ号単艦で日本に向かった。下田で第一次の談判が行われた翌日に安政東海地震が起こり、ディアナ号は津波で大破した。戸田村で修理することとなったが曳航途中で沈没し、日本の船大工を使ってロシア人指導のもと、西洋型帆船にとりかかった。プチャーチンは日本側の対応に感激し、以後の交渉はスムーズに進んで、日露和親条約の調印に至る。
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開国前後

吉田松陰がペリーの乗るボーハタン号に向かったのは何のためであったのか

嘉永七年三月三日に全十二条からなる日米和親条約が締結され、その後和親条約の細則を固めるために、伊豆国下田の了仙寺に日米の交渉の場が移されている。そして三月二十七日に吉田松陰と金子重之輔はペリーの乗る軍艦に向かって小舟を漕ぎ、深夜に辿り着くもペリーは二人の海外渡航の希望を受け入れなかった。
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開国前後

幕府に鉄道模型や電信機などを贈ったペリーとその後の幕府との交渉の行方

ペリーは日本との交渉を有利に進めるために大量の贈物を用意しており、3月13日(嘉永七年二月十五日)に幕府側の委員に渡している。特に蒸気機関車の模型や電気通信機などには日本人は強い関心を持った。幕府もその返礼として、漆器類、陶器類、米などのほか火縄銃、日本刀、通貨などを贈っている。以後の交渉において、ペリーは要望していた即時開港をあきらめ、領事を置くことが出来るのは条約締結後十八か月後で決着した。
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開国前後

日米和親条約の締結とその和文・英文の重大な相違点

米初代大統領の誕生日に百発の祝砲が放たれたのち会見の場所が横浜に決定した。幕府は石炭、薪水、食料の供給や破船の難民救助については了解し、開港については議論を先延ばそうとしたのだが、ペリーは早期に五港を開くことを要求し、協議の結果下田と箱館二港の開港が決定した。日米和親条約が締結されたが、領事設置の条件に関わる11条については英文と和文で意味が異なっている。
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開国前後

二度目のペリー来航が、約束していた時期より随分早まった経緯

ペリーの二度目の来日はかなり早まった。それはロシアのプチャーチンが長崎に来訪したとの情報を掴んだことによる。琉球ではオランダの総督より書状が届き、将軍が崩御したため幕府の要望により再来日を遅らせて欲しい旨が書かれていたが、ペリーは無視して江戸に向かう。江戸湾に入り艦隊を碇泊させ、幕府は浦賀で会見を行う旨主張したがペリーは拒否し、結局碇泊場に近い横浜村で行うことになった。
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開国前後

久里浜会見の後ペリーはどう動き、幕府は開国の問題をどう解決しようとしたか

久里浜会見の後ペリー艦隊は東に向かい、三日間にわたり堂々と江戸湾を測量して琉球に向かった。琉球では強引に交易の自由を認めさせ、用地を取得して貯炭場を完成させている。一方幕府では米国大統領国書にどう対応するか意見が募られ、国防力を高めるために品川沖に海上砲台が建設され、軍艦の建造が奨励された。
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開国前後

嘉永六年(1853年)のペリー浦賀来航

ペリー艦隊は戦闘準備を整えて嘉永六年六月三日に相模湾に入った。乗船を許された幕府役人は日本の外交窓口である長崎に廻航する旨要請するも、大統領の国書を将軍に渡すので長崎に向かう意思はない。この文書を受納すべき人物を選任しないなら、武力を持って上陸し捧呈すると強硬に主張し、もし戦争になった場合は白旗を掲げれば攻撃を止めると伝えた。老中阿部正弘は戦争を回避するために国書を受取る判断を下した。
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開国前後

オランダはペリー来航前に日本・米国に対してどう動いたのか

1844年のオランダ国王の親書で、わが国がいつまでも国を閉ざすことは難しく、開国することを勧めたが江戸幕府は受け入れなかった。1852年にはペリー来航直前にオランダは日本に開国を勧奨し、アメリカにも書状を送るなどして日米交渉の橋渡し役を演じようとしたが失敗した。オランダの忠告は両国には通じなかったが、結果として武力衝突なく日米和親条約は締結された。
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