対外関係史

開国前後

ペリーには日本が抵抗すれば武力行使を行う権限が与えられていた

蒸気船が発明され、アメリカはハワイ・日本を給炭地として経由する太平洋航路の開拓に向かおうとした。ペリーの日本遠征目的は決して武力的侵略ではなかったが、もし日本が拒絶する場合には武力行使を行って、琉球及び小笠原諸島などを占領して海軍の根拠地を作り、シナに至る戦略上の要衝の地をアメリカの手で押さえる方針があり、ベリーには武力行使の権限が与えられていた。
開国前後

船上で暴動を起こし石垣島に上陸した中国人苦力(奴隷)の話~~1852年ロバート・バウン号事件

1852年に米国のロバート・バウン号に乗っていた中国人苦力(奴隷)たちが船長と船員を殺害し、石垣島の崎枝村沖合で船が座礁すると380人の苦力が石垣島に上陸した。その後英米の武装した兵士が上陸し、80名の苦力が捕獲され、約百名が殺害された。石垣島の観音崎には、この地で犠牲になった中国人苦力のために建立された唐人墓があり、今も犠牲になった苦力たちが慰霊されている。
明治時代

中国人の奴隷225名全員を解放させた明治日本~~マリア・ルス号事件

建前上は苦力は自由意思による渡航移民だが、実態は奴隷とほとんど変わらなかった。明治五年に中国人苦力を載せた船が修理のために横浜港に入港したが、海に逃亡しようとした苦力が英国軍艦に救助されたところ明らかな虐待があったことが神奈川県庁に伝えられ、外務卿副島種臣は国内法で裁くことを妥当とし、神奈川権令大江卓は奴隷契約は無効であり、苦力全員解放する判決を下している。
開国前後

わが国が中国やインドのようにアヘンに毒されなかったのはなぜなのか

安政五年にアメリカと締結した日米修好通商条約の第四条にアヘン輸入禁止条項がある。同年に他の四カ国と結んだ通商条約にもこの条項が設けられている。この条項があることにより、明治10年にわが国にイギリスの商人がアヘンを持ち込んだことが発覚し、通商条約違反で訴えることができて世論も盛り上がった。日本を救ったこの条項は、アメリカのハリスの提案によるものである。
「鎖国」前後のアジア諸国

台湾を占領したオランダと戦った日本商人・浜田弥兵衛

オランダが侵略する以前の台湾の記録  台湾に関する古い記録を探していると、柴田賢一 著『日本民族海外発展史』の記述が目に止まった。日本人たちは戦国時代から、台湾に勢力を伸ばしていたのである。  支那人はこれを領土と称してはいた...
倭寇

後期倭寇の実態はいかなるものであったのか~~倭寇4

明は海禁政策をとり「私貿易」を厳禁した。だが、当時すでに日本に送られる支那の貿易品には生活必需品がかなり含まれており、結果としてわが国の「私貿易」は盛んになったのだが、明の取締りが厳しくなると中国沿海地方の悪徳商人たちが利権を手中に収め、日本商人の利益が損なわれ、王直らが日本商人に食い込んでいった。王直は長崎の五島や平戸に本拠を置いてアジアの商圏を拡大したが、後に明国と戦うこととなる。
倭寇

「前期倭寇」の活動が鎮まった経緯と「後期倭寇」が発生するまで~~倭寇3

南北朝の統一がなったのち足利義満は明国に対し強硬な態度で臨むことを改め、まるで明国に媚びを売る姿勢て外交に臨み、明との勘合貿易が開始されて次第に倭寇は減少していく。その後幕府の財政難から大内氏や細川氏に貿易船を出すことが許されるようになると、その利権を巡り大内・細川両氏の争いが熾烈化し、公貿易が中止となる。その後私貿易・密貿易が行われ、後期倭寇が急増する。
倭寇

「前期倭寇」を考える ~~ 倭寇2

前期倭寇が頻発していた時代の大部分はわが国の南北朝時代にあたっている。そして急激に件数が増加したのは、足利直義と高師直が対立し、政争に敗れた直義が南朝に帰順した以降のことである。同じ時期に中国では朱元璋が明を起こして元を北に追いやり、朝鮮半島では李成桂がクーデターを起こして李氏朝鮮を成立させた。
倭寇

倭寇はなぜ元寇のあとから頻発するようになったのか~~倭寇1

9世紀から11世紀にかけて、九州沿岸地方には外国の海賊による襲撃・略奪を何度も受けた記録が残されている。特に有名な事件が刀伊の入寇であり、13世紀に元寇があって、多くの住民が虐殺され拉致された。倭寇は元寇の復讐との見方があるが、南朝勢力が倭寇に関わっていたという記録もある。
元寇

弘安の役で元軍を襲った台風の後も続いた死闘とその後の元の日本侵攻計画~~元寇5

弘安の役で台風が襲来したことは事実だが、東路軍の被害は比較的少なく高麗軍は7割以上が帰国している。江南軍の船は多くが沈んだが、多くの将兵は無事でまだ戦える戦力は保持していたのだが、司令官や将校たちは数万の兵卒を見捨てて船に乗って逃げて行った。その後両軍が博多湾と鷹島沖で激しい掃討戦が行われた。
元寇

弘安の役における武士たちの活躍~~元寇4

弘安の役における東征軍は東路軍と江南軍の二軍編成で、総数は14万人を超える大規模なものであった。東路軍が先に合浦を出港し、6月6日に博多湾に現れたが、防塁が築かれていたための博多湾内の上陸はできず、志賀島に一部の船を上陸させたが、日本武士たちは何度も夜襲をかけて東路軍の進撃を阻んだ。東路軍は一旦壱岐に退き江南軍との合流をし、いよいよ大軍が博多湾に向かうこととなる。
元寇

北条時宗は文永の役のあと次の元寇に備えてどう動いたのか~~元寇3

第一回目の日本征伐が失敗し、元のフビライは日本再征を決断し、文永の役の翌年に使者を送り込んだが執権北条時宗は使者の斬首を命じ、次回の元寇に備えて博多湾に防塁を建設し、要衝に兵を駐在させて国の守りを強化した。一方、元は次回の元寇で必ず日本を征伐するため二十一万の大軍を送もうとしていた。
元寇

文永の役で優勢に戦っていた元・高麗連合軍の船団がなぜ博多湾から消えたのか~~元寇2

文永の役で元・高麗連合軍が一夜のうちに博多湾から消えたのは、元や高麗の正史では、兵力が不足し、矢も不足していたことが記されている。彼らの撤退は予定の行動であったのだが、鎌倉幕府や朝廷は有名な寺社に「蒙古退散」の祈祷を依頼していたことから、寺社側は祈祷の効果があったと主張した。敵軍が撤退した後に高波で座礁した船が壱岐近辺に多かった記録も残されている。
元寇

GHQに焚書処分された北条時宗に関する書籍に何が書かれているか~~元寇1

北条時宗に関する書籍がGHQによって焚書処分されている。現状の教科書には北条時宗について,元のフビライの朝貢要求を無視したとだけ書かれているのだが、GHQ焚書処分された本には、北条時宗や元寇について何が書かれているのだろうか。文永の役では対馬や壱岐で多くの島民が略奪され虐殺され奴隷にされていることや、博多に上陸されたのち多くの犠牲者が出たことが詳しく書かれている。
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