一揆・暴動

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飢餓と戦争

大名の争いから村を守る村人の戦い

飢餓の村の収穫期を襲った北条早雲の記録  前回の「歴史ノート」で、戦国時代に凶作のために各地で飢饉が何度か発生し、食糧の絶対量不足から、食糧などを奪い合う争いが各地で起きたことを書いた。戦国大名が侵略戦争を繰り返したのは慢性的な食糧...
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土一揆と応仁の乱

「応仁の乱」と、その後相次いだ「下剋上」~~土一揆と応仁の乱3

義教死後の幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名宗全を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は、将軍義政のあとつぎをめぐる弟義視と義政の妻・日野富子のうんだ義尚との争いを中心に二つに分かれて争った。応仁の乱の後に山城国一揆が起き、以降「下剋上」が相次いだ。
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土一揆と応仁の乱

頻繁に起こっていた土一揆が応仁の乱の十一年間に記録されていない事情~~土一揆と応仁の乱2

嘉吉元年に起きた嘉吉の土一揆の際には、幕府は初めて公式に徳政令を発布している。将軍の代替わりの混乱期に徳政を求めて数万人の農民らが蜂起し京都を包囲し放火掠奪を行った。文安四年、享徳三年、長禄元年、寛正元年、三年、六年、七年にも土一揆が起こるのだが、応仁の乱のあった十一年間は土一揆の記録がない。彼らは足軽となって乱暴狼藉を働いていた。
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土一揆と応仁の乱

なぜ室町時代中期に土一揆が頻発したのか~~土一揆と応仁の乱1

「シュペーラー極小期」と呼ばれる1420~1530年頃の太陽活動が低下した時期は、わが国においては応仁の乱から戦国時代にかけての時代を含んでおり、この時代に各地で飢饉が発生し、土一揆が起こったり隣国同士が戦うなど、争いごとが頻発した時代である。1428年の正長の土一揆、1443年の嘉吉の大飢饉のあと、1460年の寛正の大飢饉では餓死者が鴨川にあふれて流れをふさぐほどであったことが記されている。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

明治二年から四年にかけての明治政府はいつ崩壊してもおかしくなかった~~廃藩置県への道

版籍奉還後の鹿児島藩、山口藩の混乱  前回記事で、明治二年(1869年)に行われた版籍奉還のことを書いた。伊藤博文や大隈重信は、これを機に封建的支配体制を一気に解体し、郡県制を布いて中央の統制権を高めることを望んだのだが、当時の情勢...
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廃仏毀釈・神仏分離

明治六年に軍の派遣を要請し、ようやく鎮圧された越前護法大一揆

明治政府は浄土真宗の強い地域では、寺院の統廃合は難しいことを悟り、明治五年に神祇省を廃し教部省を設置し、僧侶を教導職に起用して組織的な国民教化を推進しようとしたが、敦賀県に送り込んだ教部省の役人の発した言葉が僧侶・門徒を刺激し、大規模な一揆が発生している。
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廃仏毀釈・神仏分離

明治政府の宗教政策に抵抗した浄土真宗の僧侶や門徒たち…大濱騒動のこと

浄土真宗はこれまで他教団からの迫害を受けながら熱烈な布教を続けてきた経緯から、寺と信者の結びつきは固く、『神仏分離令』が出た以降の教団の危機を僧侶とともに共有し、新政府の宗教政策に抵抗した歴史がある。三河でおきた大浜騒動についてまとめました。
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