和歌山 高野山壇上伽藍に奇しくも残された神仏習合の風景 壇上は高野山開山時から中心とされていた地域で、奥の院とともに高野山の二大聖地である。そこに高野山の鎮守とされる丹生明神と高野明神などをまつる御社(みやしろ)がある。このような施設は、明治政府の神仏分離令により寺から撤去することを命じられたのだが、なぜ高野山の壇上伽藍に残されているのか。調べると高野山はこの施設を残すのに大変な努力をしている。 2020.11.05 2022.03.23 和歌山
和歌山 世界遺産の高野参詣道を行く~~慈尊院、丹生都比売神社 高野山の参詣道は七つあるが、最もよく使われたのが町石道である。その始点にあるのが慈尊院で、かつては丹生官省符神社と一体であった。慈尊院から丹生官省符神社に向かう石段の途中に最初の町石である百八十町石がある。丹生都比売神社は、昔は多宝塔など多くの仏教的施設があったのだが、明治初期の神仏分離によりすべて撤去されてしまった。 2020.10.30 2022.04.09 和歌山
京都 伏見稲荷大社近辺の古刹を訪ねて~~宝塔寺と石峰寺 伏見稲荷大社の南に宝塔寺という古刹がある。この寺はかつては極楽寺といい、源氏物語にも名前が出てきて、四脚門、本堂、多宝塔は国の重要文化財に指定されている。その北には石峰寺があり、江戸時代の画家・伊藤若冲がここで晩年を過ごし、五百羅漢の石像を製作している。 2020.10.25 2022.03.23 京都
京都 藤森神社の祭りの神輿が伏見稲荷神社の境内に入る歴史的経緯 伏見稲荷大社の大鳥居から参道を左に折れると藤尾社という末社がある。昔は稲荷社(現在の伏見稲荷大社)は稲荷山の山頂周辺に祠があったが、永享10年に後花園天皇の勅命で、それまで山麓にあった神社を藤森神社に遷し、その跡地に稲荷社の社殿を建て、境内にこの末社が残された。藤森神社の祭りでは神輿が伏見稲荷大社の参道に入り、この末社に宮入りする。かつては駈馬神事も伏見稲荷の参道で行われたとの記録がある。 2020.10.20 2022.03.23 京都
京都 伏見稲荷大社と稲荷山の山巡り 伏見稲荷大社の本殿参拝ののち千本鳥居を抜けて奥社奉拝所で参拝を済ませたのち稲荷山の山巡りにチャレンジしてきた。稲荷山は決して高い山ではないが、一周して本殿に戻るのに約二時間かかる。楼門の南に国学者の荷田春満旧宅がある。この人物は赤穂浪士に吉良邸の見取図や茶会の情報を教えたことが伝えられている。 2020.10.15 2022.03.23 京都
明治初年の外国人殺傷事件 知恩院からイギリス公使パークス襲撃事件の現場を訪ねて 慶応四年二月三十日に英公使パークス襲撃事件が起きたが、一行は知恩院を出発して新橋通りを直進し、縄手通りを右折するところで二人の凶漢に襲われた。実際に知恩院から襲撃地点まで歩き、犯人の墓を訪ねてみた。犯人の一人はその場で首を斬られ、もう一人の三枝蓊は武士の身分を剥奪された上で斬首されたが、二人は霊山墓地に「神霊」と彫られた墓に眠っている。 2020.10.10 2022.10.31 明治初年の外国人殺傷事件
明治初年の外国人殺傷事件 神戸事件責任者処刑の六日後に起きた、土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件~~堺事件 神戸事件が解決後、今度は堺で土佐藩兵に11名の若いフランス人が殺害される事件(堺事件)が起きている。堺の治安回復を任された土佐藩は内地旅行の免状がなければ外国人を堺に入れない方針をとり、堺港から上陸しようとしたフランス人を土佐藩兵が撃ちまくった。フランス公使は激怒し、新政府と交戦することを辞さない姿勢であった。 2020.09.25 2022.04.09 明治初年の外国人殺傷事件
明治初年の外国人殺傷事件 鳥羽伏見の戦いの数日後に神戸で起きた備前藩兵と外国軍との間の銃撃戦~~神戸事件 鳥羽伏見の戦いが終わった直後に、備前藩兵が今の三宮神社近辺で偶々この隊列を横切ろうとした外国人とトラブルが発生し、拳銃を構えた外国人に発砲したことから、外国軍も交えての銃撃戦が始まった。死者はなかったが、外国人は新政府に対し、責任者の厳罰を要求した。新政府は「開国和親」に舵を切り、備前藩に責任者の切腹を要求した。 2020.09.20 2022.04.09 明治初年の外国人殺傷事件
和歌山 種子島に伝来した鉄砲一挺を持ち帰った根来寺のこと 種子島に伝来した2挺の鉄砲のうち1挺を、根来寺の「杉ノ坊某」が持ち帰ったことが『鉄炮記』に記されているが、種子島だけでなく根来でもそれぞれ同様な時期に鉄砲の複製品の製作に成功し、その後大量生産を開始している。根来寺では根来衆の鉄砲隊が組織されたが、秀吉の紀州攻めで敗れ、根来寺も滅亡した。 2019.06.26 2022.03.26 和歌山
廃仏毀釈・神仏分離 宮門跡の一つであった照高院が明治初期に失われたこと 男性皇族が出家して住職として居住する寺院を宮門跡というが、全国で十三あった宮門跡の寺院の一つであり伏見城の建物が移築されていた照高院は、明治の初期に取り壊されてしまった。跡地には石垣のみが残され、「照高院址」の石碑はなぜか別の場所に建てられている。 2019.04.04 2019.04.06 廃仏毀釈・神仏分離
隠れキリシタン(茨木) 聖ザビエル像が山奥で発見されたのち、売却された経緯~~隠れキリシタンの里2 聖フランシスコ・ザビエル像(国重要文化財)は大正九年(1920)に茨木市で発見されたのだが、なぜ山奥の民家でこのような貴重なものが出てきたのだろうか。またザビエル像は今は神戸市立博物館の所蔵品となっているが、どういう経緯で売却されたのであろうか。 2019.03.18 隠れキリシタン(茨木)
隠れキリシタン(茨木) 聖フランシスコ・ザビエル像が北摂の山奥に残された経緯~~隠れキリシタンの里1 今から100年程前に、茨木市千提寺で聖フランシスコ・ザビエル像など貴重なキリシタン遺物が相次いで発見されている。このあたりはかつてキリシタン大名・高山右近が治めた地域なのだが、そののちキリスト教は禁教とされた。山深い地域で貴重な遺物が出てきた経緯を考えてみたい。 2019.03.14 2022.03.29 隠れキリシタン(茨木)