京都

京都府久美浜町の歴史と文化にふれる旅

久美浜町湊宮の五軒家と天明の大飢饉  京都府京丹後市にある久美浜湾は、東から佐濃谷川、川上谷川、久美谷川の三河川が注いでおり、北は小天橋(しょうてんきょう)と呼ばれる砂洲によって大部分が日本海と隔てられ、淡水と海水が混ざり合う、波穏やかな潟...
兵庫

紅葉の季節に西脇の歴史・文化を訪ねて

毎年紅葉の季節に地方の古刹などを観光するのだが、今年は兵庫県西脇市を訪ねてきた。(11/18訪問、撮影) 西林寺  最初に訪れたのは紅葉で知られる西林寺(西脇市坂本455)。高野山真言宗の寺院である。 西林寺 仁王門  寺伝によるとこの寺は...
征韓論から士族の反乱

前原一誠と萩の乱

福岡の秋月の乱の翌日に山口で前原一誠らが起ちあがった。前原は維新後参議を務めた人物だが、「国民皆兵」の徴兵制路線や奇兵隊の処分を主張した木戸孝允と意見が対立し、明治三年九月に官を辞して萩に帰郷していた。前原は明治九年十月に、熊本で神風連、福岡で秋月の乱が起きた情報が入ると、二十七日に萩の不平士族たちを明倫館の講堂に招集し決起することを決定した。
ナチス関連

GHQが焚書処分したナチス研究書3~~八条隆孟 著『ナチス政治論』

前回に引き続き、GHQによってシリーズの大半が焚書処分された株式会社アルスの『ナチス叢書』のなかから、今回は八条隆孟 著『ナチス政治論』(昭和十六年五月刊)という本を紹介したい。 ドイツ革命とその後の混乱  以前このブログで、ロシア革命はユ...
征韓論から士族の反乱

神風連の乱の三日後に起きた秋月の乱

熊本の神風連が蹶起すると聞き、福岡の秋月も挙兵を決めた。秋月で集まったのは百五十人程度であったが、挙兵に加わる約束をしていた旧黒田藩に裏切られて何とか危地を脱したものの、食糧も乏しくなり、多くの者が脱落していった。今村百太郎がわずか十七名で最後の決戦を試みた。
ナチス関連

GHQが焚書処分したナチス研究書2~~末次信正著『日本とナチス独逸』

日独伊三国同盟はなぜ結ばれたのか  前回のこのコーナーで株式会社アルスが出版した『ナチス叢書』の大半が焚書処分されていることを書いたが、今回も『ナチス叢書』のなかから末次信正 著『日本とナチス独逸』(昭和十五年十一月刊)の一部を紹介したい。...
征韓論から士族の反乱

廃刀令が出た半年後に起きた熊本神風連の乱

明治維新後士族を取り巻く環境が激変し収入も激減していたのだが、明治九年の廃刀令で不平士族の不満が爆発した。熊本では神風連の党員約170名が新政府施政の過ちを正そうと起ちあがり、熊本鎮台司令官宅、熊本県令宅、熊本鎮台などを襲撃した。翌日鎮圧されたが、この事件に呼応して、秋月の乱、萩の乱が起きている。
ナチス関連

GHQが焚書処分したナチス研究書1~~深尾重正著『ナチスの放送戦争』

大半がGHQによって焚書処分されたアルス社の『ナチス叢書』  前回はヒットラーの著書を紹介したので、今回はナチスに関する研究書を紹介することとしたい。  今は存在しないが、かつて株式会社アルスという出版社が存在した。詩人として有名な北原白秋...
征韓論から士族の反乱

江藤新平と佐賀の乱~~戦争煽動責任は政府にあるのではないか

明治六年の政変の後、政府に対する不満が各地で爆発し、七年一月には岩倉具視が襲われる事件が起きた。岩倉は無事であったが、公務を休んで療養中に佐賀の乱が起きている。佐賀では征韓論中止に士族たちが激昂していた。江藤は佐賀の不穏な空気を鎮めようと急いで帰郷したのだが、こともあろうに政府は内乱が起きてもいない佐賀に軍隊を送りこみ、江藤らは政府軍との戦いを余儀なくされる。
ナチス関連

GHQが焚書処分したヒットラーの著書を読む 2~~『我が闘争  第2巻 下』

4冊のうち3冊がGHQによって焚書処分された『我が闘争』の目次  前回の記事で、ヒットラーの『我が闘争』は 東亜研究所版の4冊のうち「第1巻 上」を除く3冊が焚書処分されていて、「第2巻 上」だけが国立国会図書館でネット公開されていることを...
征韓論から士族の反乱

征韓論が生まれた背景と明治六年の政変

江戸時代に於ける李氏朝鮮との交渉は対馬国守の宗氏が窓口となり、釜山浦草梁に倭館が置かれて貿易などが行われていたのだが、明治維新後は新政府を交渉の窓口とすべく何度か使節を送ったのだが、当時の同国は大院君による極端な排外主義的政策がとられていて、わが国の使節は侮辱され、国書も斥けられる始末であった。わが国では征韓論が起こり、西郷隆盛は自らが丸腰で交渉に行くことを主張した。
ナチス関連

GHQが焚書処分したヒットラーの著書を読む 1~~『我が闘争  第1巻 下』

GHQ焚書点数の多い外国人著作の共通点  戦後GHQが多くの書籍を焚書して日本人に読めないようにしたのだが、外国人の著作についても多くを処分している。その中でも最も焚書点数が多いのが、ナチスドイツの総統であったアドルフ・ヒットラーの書籍で、...
徴兵令と士族の没落

徳川家旧幕臣らが茶畑の開墾を始めた牧之原台地

明治二年七月に静岡藩知事徳川家達の命が出て、牧之原台地の開墾のために中條・大草ら旧幕臣の二百余名が士族という身分を捨てて、牧之原台地の開墾のために動きだした。当時の牧之原は古代に堆積した礫土によって地元の農民も寄り付かない原生林であった。そこに道路・水路を作り開墾していった。広大な牧之原の大茶園は全国の生産面積の1/4に及ぶが、その礎を気付いたのは徳川家臣であった。
武藤貞一

日米を戦わせるように仕向けた国はどこなのか~~武藤貞一『日米十年戦争』(GHQ焚書)

これまで武藤貞一のGHQ焚書を3冊紹介してきたが、今回紹介する本は、第二次世界大戦でわが国がアメリカに宣戦布告した約半年前に出版された『日米十年戦争』(GHQ焚書)である。  奥付を確認すると、この本が出版された日は昭和十六年六月五日で、手...
徴兵令と士族の没落

徳川家臣団による「士族の商法」

駿府に移住せずに江戸に残って商人になった旧幕臣は少なくなく、汁粉屋や団子屋や古道具屋、金貸し業などを始めたが、ほとんどの者は商売の基本がわからずに赤字を垂れ流して失敗している。 駿府に移ってから商売を始めた者もいたが、一部は成功した者もいたが大半は失敗した。
武藤貞一

GHQに封印された支那事変の真実~~武藤貞一著『日支事変と次に来るもの』

盧溝橋事件直後に出版されたベストセラー  前回に引き続いて武藤貞一のGHQ焚書を紹介したい。以前にも書いたが、武藤貞一は 戦前の昭和十一年から「大阪朝日新聞」の論説委員となり、「天声人語」欄を執筆。昭和十四年に「報知新聞」の主筆となり、戦中...
徴兵令と士族の没落

静岡に移住した旧幕臣や、下北半島に移住した旧会津藩士たちの悲惨な暮らし

徳川の家臣たちの半数以上が駿府移住を希望したが、その多くは無禄移住となり、彼らの生活は非常に厳しいものとなった。旧幕臣の父らともに移住した塚原渋柿園の記録では非番の時に海や山で食糧を探す生活で、中には家族全員が餓死した家もあったという。 戊辰戦争で敗れた会津藩は下北半島の斗南藩に移封となり、極寒の入植先での生活は悲惨なものがあった。
武藤貞一

第二次世界大戦の前に戦争の形が変わった~~武藤貞一著『世界戦争はもう始まっている』を読む

1936年までに、すでに臨戦態勢に入っていた列強諸国  前回に引き続き武藤貞一の著書を紹介したい。今回は『世界戦争はもう始まっている』(GHQ焚書)である。   第二次世界大戦は1939年の9月のドイツ軍のポーランド侵攻を発端とし、その後英...
徴兵令と士族の没落

家禄が大幅に削減された士族のなかでも特に悲惨な目にあった徳川の旧幕臣たち

明治維新で封建制が瓦解し、徴兵制が発布されて士族がその存在意義を失い、深刻な生活問題に直面した。最も悲惨であったのは徳川の旧幕臣で、徳川慶喜は江戸城明け渡しの後、八百万石を七十万石に減らされて駿府に移封され、多くの家臣が無禄で静岡に移住した。静岡藩は移住希望者を運ぶためにチャーターした船は、奴隷を運ぶのと同様の方法で家臣団を運んでいる。
武藤貞一

わが国が第二次大戦で戦わざるを得ない状況に追い込んだ勢力~~武藤貞一著『日本の変貌』を読む

武藤貞一の著作はGHQに嫌われ、国会図書館においても全著作がネット公開されていない  武藤貞一という人物は今ではほとんど知られていないと思うのだが、戦前の昭和十一年から「大阪朝日新聞」の論説委員となり、「天声人語」欄を執筆。昭和十四年に「報...
徴兵令と士族の没落

明治政府が士族中心の軍隊を否定した経緯と徴兵制に対する国民の反応

山縣有朋は、中央軍隊の編成を大久保利通らは薩摩・長州・土佐の三藩の藩兵を主体とする主張を退け、「四民平等、国民皆兵」の徴兵制を採用し、明治六年に徴兵令が発布された。しかし、当初は徴兵を忌避する者が多くて、兵を集めるのに随分苦労している。
国会図書館デジタルコレクション

菊池寛の『明治文明綺談 』で幕末から明治期に西洋文明に触れた日本人を知る

幕末から明治にかけての歴史について、菊池寛がいろいろ面白い本を書いている。前回紹介した『大衆明治史』もいいが、『明治文明綺談』という本には幕末から明治にかけて、西洋の最新の文化・文明機器にふれたわが国の面白い話題が満載である。  慶応三年(...
飢餓と戦争

戦場で拉致されて売られていった人々

戦国時代に戦場となった各地で乱取りが行われ、食料や家財道具などが奪われたり身代金目的で村人が拉致されることも少なくなかった。本州や四国で奴隷として売られた場合は、生きていれば家族と再会できる可能性があったのだが、九州の場合はそうとは限らず、多くの日本人が海外に売られていった。このことに激怒した秀吉は伴天連追放令を出すのだが、この間の事情は戦後の歴史では封印されてきた。
国会図書館デジタルコレクション

菊池寛の名著『大衆明治史』(GHQ焚書)で日露戦争の舞台裏を読む

菊池寛といえば小説家であり劇作家でありジャーナリストであり、実業家としても文芸春秋社を創設した著明な人物だが、歴史書にもいい本をいくつか出している。戦後は歴史家が登場人物を生きた人間として描くことがほとんどなくなってしまったのだが、菊池寛は...
飢餓と戦争

大名の争いから村を守る村人の戦い

飢餓の村の収穫期を襲った北条早雲の記録  前回の「歴史ノート」で、戦国時代に凶作のために各地で飢饉が何度か発生し、食糧の絶対量不足から、食糧などを奪い合う争いが各地で起きたことを書いた。戦国大名が侵略戦争を繰り返したのは慢性的な食糧不足があ...
GHQ焚書

日露戦争後に日米関係がどう動いたか~~福永恭助著『挑むアメリカ』(GHQ焚書)を読む

福永恭助は海軍少佐で退役した後、小説や軍事に関する評論などの著作を残しているが、戦前・戦中の作品34点のうち12点がGHQによって焚書処分されている。 また、国立国会図書館デジタルコレクションでデジタル化されていながらネット公開されていない...
飢餓と戦争

戦国大名は何度も起きた飢饉をいかにして乗り越えようとしたか

「シュペーラー極小期」と名付けられた小氷河期に、に全国各地で農産物の不足のために飢饉が起こり、土一揆が頻発し、応仁の乱以降食糧などを奪い合う争いが各地で起こり、身代金目当てで村人までもが狙われた。戦いに参加した雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏への端境期の戦場は、たった一つのせつない稼ぎ場であったのだ。
国会図書館デジタルコレクション

徳富蘇峰が立ち上げた『国民新聞社』の出版物を読む~~『日本野球史』『霞ヶ関を衝く:弱体外交の実相暴露』

『国民新聞』は徳富蘇峰が明治二十三年(1890年)に創刊した日刊紙で、日清戦争後に蘇峰が桂太郎に接近し、明治三十八年(1905年)には日露講和条約賛成を唱えたために、講和反対を叫ぶ暴徒の焼討ちに遭ったり(日比谷焼討ち事件)、大正二年(191...
土一揆と応仁の乱

「応仁の乱」と、その後相次いだ「下剋上」~~土一揆と応仁の乱3

義教死後の幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名宗全を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は、将軍義政のあとつぎをめぐる弟義視と義政の妻・日野富子のうんだ義尚との争いを中心に二つに分かれて争った。応仁の乱の後に山城国一揆が起き、以降「下剋上」が相次いだ。
国会図書館デジタルコレクション

福沢諭吉らが立ち上げた時事新報社の出版物を読む~~『利権物語』『不景気はどうなる』

「時事新報」は明治十五年(1882年)に福沢諭吉によって創刊された新聞であるが、当初は伊藤博文や井上馨の要請を受けて政府系の新聞を造る計画だったという。しかし「明治十四年の政変」により大隈派官僚が失脚したため当初の計画は頓挫したのだが、すで...
土一揆と応仁の乱

頻繁に起こっていた土一揆が応仁の乱の十一年間に記録されていない事情~~土一揆と応仁の乱2

嘉吉元年に起きた嘉吉の土一揆の際には、幕府は初めて公式に徳政令を発布している。将軍の代替わりの混乱期に徳政を求めて数万人の農民らが蜂起し京都を包囲し放火掠奪を行った。文安四年、享徳三年、長禄元年、寛正元年、三年、六年、七年にも土一揆が起こるのだが、応仁の乱のあった十一年間は土一揆の記録がない。彼らは足軽となって乱暴狼藉を働いていた。
国会図書館デジタルコレクション

総理大臣を三名も輩出した戦前の報知新聞社の本を読む~~『大隈侯昔日譚』、『満州開拓戦士』

戦前の報知新聞社は人材の宝庫であった  「報知新聞社」は『スポーツ報知』を発行している新聞社だが、かつての『報知新聞』は多くの読者の支持を得た有力紙で、この新聞社から内閣総理大臣が三名(大隈重信、原敬、犬養毅)も出ているということは知らなか...
土一揆と応仁の乱

なぜ室町時代中期に土一揆が頻発したのか~~土一揆と応仁の乱1

「シュペーラー極小期」と呼ばれる1420~1530年頃の太陽活動が低下した時期は、わが国においては応仁の乱から戦国時代にかけての時代を含んでおり、この時代に各地で飢饉が発生し、土一揆が起こったり隣国同士が戦うなど、争いごとが頻発した時代である。1428年の正長の土一揆、1443年の嘉吉の大飢饉のあと、1460年の寛正の大飢饉では餓死者が鴨川にあふれて流れをふさぐほどであったことが記されている。
国会図書館デジタルコレクション

戦前・戦中に出版された読売新聞社の『支那事変実記』、『海戦 : 大東亜海戦記』を読む

2020年の新聞の発行部数ランキングでは読売新聞は776万部で第1位であるが、Wikipediaによると1938年の朝刊発行部数は100万部、1944年は191万部であったという。読売新聞はどちらかというと戦後大幅に発行部数を伸ばした新聞社...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

徳島県が名東県と名称を変えたのち高知県に吸収され、その後再設置されるまで~~四国2

庚午事変の処分が終わり、明治四年十一月の第一次府県統合で徳島県は名東県に名称が変更され、二年後には香川県を併合した。しかしながら明治九年八月に名東県は廃止され、阿波国は高知県へ、淡路国は兵庫県に併合された。この措置によって阿波国人の受けた不利益は、言語に絶するものがあった。
国会図書館デジタルコレクション

新聞社・通信社が戦前・戦中に発行した写真集~~『関東震災画報』『時局及排日ポスター写真帖』『支那事変写真帖』

戦前・戦中に新聞社が多くの写真集を出版している。新聞社のカメラマンが国内外で撮影したものがほとんどだと思うのだが、言葉で書くよりも現場で撮影された一枚の写真の方がはるかに説得力があるので、時々覗いていい写真があればブログの記事に利用させて頂...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

徳島藩蜂須賀家が治めていた淡路島がなぜ兵庫県に移されたのか~~四国1

明治政府にとって難治県とされた徳島県  上の図は四国の県の変遷をまとめたものだが、何度も県の統廃合が行われていて結構ややこしい。「淡路国」というのは現在の「淡路島」を意味するが、明治の初期に於いては、兵庫県ではなく徳島県の一部であったことや...
国会図書館デジタルコレクション

新聞社で二番目にGHQ焚書点数の多い毎日新聞社の本~~『日本へ寄せる書』、『国際戦を呼ぶ爆弾 支那』

戦前・戦中の毎日新聞社  GHQが最初に焚書処分にした10冊のことを以前このブログで書いたが、そのうちの九点が毎日新聞社が発行した書籍であった。  前回の記事で書いた通り、戦前戦中に新聞社が発行した本のうちもっともGHQ焚書点数が多いのは朝...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

鹿児島県に合併されてすぐ西南の役に巻き込まれた宮崎県の再設置運動

宮崎県の誕生  上の図は何度か紹介させて頂いた明治十二年(1879年)の日本地図だが、九州の南部に宮崎県が存在していなかったことがわかる。今回は宮崎県が鹿児島県に吸収合併されたのち復活に至るまでの経緯について書くこととしたい。  宮崎県は、...
国会図書館デジタルコレクション

朝日新聞社が、戦前・戦中に刊行した本~~『植民地の再分割』『米国への判決』『陸軍』

著作権保護期間終了しても多くの書籍が国会図書館でネット非公開  一昔前の大手新聞社は世界各地に特派員を送り込んで様々な情報を集め、今よりもはるかに質の高い記事を載せていた。本屋には、大手新聞社が発行した国際情勢や時事問題に関する解説書が平台...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

大久保利通暗殺事件と石川県の三分割 ~~北陸3

明治11年5月に、石川県の不平士族らが大久保利通を襲い殺害する事件が起き、その二か月後に町村編制法・府県会規則・地方税規則(「三新法」)が公布され、府県会の選挙が行われることとなった。その後各地で分県に関する議論に火が付き、14年に石川県から福井県が分離することが決まり、16年には富山県が分離することが決定した。
国会図書館デジタルコレクション

GHQが最も嫌った野依秀市の著した政権・大手マスコミ批判の書

昭和14年刊『支那事変の前途は悲観か楽観か』  前回このカテゴリーで、GHQ焚書点数の最も多い野依秀市の軍部批判の論文を紹介したが、今回は野依の著作の中から、政権批判や大手マスコミ批判の論文を紹介したい。  最初に紹介するのは『支那事変の前...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

石川県が明治九年に日本最大の県となった事情~~北陸2

明治九年に全国規模で大規模な府県統合が二度にわたり行われ、石川県は四月に新川県(現在の富山県)を併合し、八月には敦賀県(現在の福井県)の一部を合併して、旧石高二百二十万石の日本最大の県となっている。旧石川県のみならず、新川県(富山県)も敦賀県もいろいろ問題の多い県であり、それまでに大きな文化破壊が行われ、後には暴動が起きて多くの者が処刑された歴史がある。
国会図書館デジタルコレクション

GHQ焚書点数第1位の野依秀市が著した軍部批判の書

国会図書館でデジタル化されていても、ほとんどネット公開されていない野依の著作  野依秀市は、雑誌『実業之世界』、日刊紙『帝都日日新聞』、仏教雑誌『真宗の世界』等を創刊・運営し、明治・大正・昭和の三つの時代にわたって活躍したジャーナリストで、...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

金沢県を石川県に改称し県庁を金沢から美川町に移した事情~~北陸1

明治四年七月の廃藩置県では金沢藩は金沢県、大聖寺藩は大聖寺県となり、十一月二十日に両県は廃止され金沢県が置かれ、能登半島のある北部を分離して七尾県が新たに設置されたのだか、翌年二月二日には金沢県は石川県と県名を変え、五月五日に県庁を石川郡美川町に移している。なぜ金沢から海辺の小さな町に移されたのかを調べると不平士族の問題に突き当たる。
国会図書館デジタルコレクション

松岡洋右が若い世代に語った講演集『少年に語る』、『青年よ起て』

松岡洋右は明治十三年(1880年)に廻船問屋の四男として山口県に生まれたが、十一歳の時に父親が事業に失敗して破産してしまい、十四歳の時にアメリカに渡り、働きながら学校に通った。彼は著書に「アメリカでルンペンをやりました」と書いているが、早朝...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

鳥取県の再設置の経緯と北海道開拓に送り込まれた鳥取士族たち~~鳥取県再設置2

明治九年の九月に鳥取県は島根県に併合されたのだが、藩政時代に於いて山陰で最大の藩は鳥取藩であり、格下の松江藩に吸収されたことは鳥取県人にとって屈辱的であった。併合後は鳥取の経済は衰退し、商家・士族の倒産が続出し、足立長郷が共斃社を設立し、鳥取県復県を内務省に建議したが、過激な活動をしていた彼らの案は受け入れられず、岡崎平内が愛護会を結成し、鳥取県再置を山縣有朋に嘆願した。
国会図書館デジタルコレクション

大川周明の『日本的言行』、『日本文明史』を読む

昭和八年刊『日本的言行』  前回の「国立国会図書館デジタルコレクション」で長野朗の著作を紹介したのだが、今回は大川周明の著作を紹介させていただきたい。 大川周明  大川は民間人として唯一東京裁判のA級戦犯として起訴されたが、裁判終了後に存命...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

鳥取県が消滅し、鳥取城が破壊され、鳥取最大の祭も失われた~~鳥取県再設置1

旧藩時代において鳥取藩は山陰地方で最大の藩であったのだが、明治九年九月六日に、格下であったはずの島根県の県令から鳥取県庁に宛てて「今般鳥取県は本県と合併される」旨の布告が届いたのだが、主に鳥取の士族はこの命令に憤った。それから五年間にわたり「鳥取県」が地図から消え、その間に鳥取城が破壊された。
長野朗

長野朗の『支那の真相』、『我等世界に何を学ぶ可き乎』を読む

このブログで長野朗(ながの あきら)の著書をいくつか紹介させて頂いたが、長野は戦前の代表的な中国通で多くの著書を残している。彼の著書のうち十八点がGHQ焚書図書となっており、没収された本の多さでは三番目にランクされる人物である。 今回はGH...