政治・軍事史

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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

廃藩置県のような大改革が平穏無事に行われたのはなぜか

政府としては、版籍奉還後も実質的に存続していた封建的藩体制を廃絶させると同時に、大規模な反乱を鎮圧できるだけの兵力を中央に整えたかったのだが、政府軍を編成するには薩長の力に頼るしかなかった。薩摩藩の島津久光は廃藩置県に反対であったが、上京した西郷隆盛はそれに賛同し、不平士族による反乱の鎮圧を引き受けることによって廃藩置県を進める体制が整ったのである。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

明治二年から四年にかけての明治政府はいつ崩壊してもおかしくなかった~~廃藩置県への道

版籍奉還後の鹿児島藩、山口藩の混乱  前回記事で、明治二年(1869年)に行われた版籍奉還のことを書いた。伊藤博文や大隈重信は、これを機に封建的支配体制を一気に解体し、郡県制を布いて中央の統制権を高めることを望んだのだが、当時の情勢...
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

版籍奉還で封建制度を廃滅させようと考えた伊藤博文と大隈重信

木戸孝允は藩主・毛利敬親に面謁して版籍奉還を急ぐべきことを説き、さらに大久保利通等を説得して、薩長土肥の四藩が率先して版籍奉還を上奏することで話がまとまった。四藩のあと各藩から奉還上表が提出されたのち版籍奉還が勅許され、旧藩主をそのまま藩知事としたが、政府によって任命される地方長官と位置付け、旧藩主と旧藩士との主従関係が建ち切られたことに意義があった。
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東京奠都とその影響

京都は東京奠都のあとの衰退をいかに乗り越えたか~~東京奠都4

首都の機能が東京に移転してしまえば、皇族や公卿や各藩の屋敷の大半が空家となり、多くの人々が、京都を去ることにより人口が急激に減少し、武家や宮家や公卿が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して京都の賑わいは消え、荒廃していくことにならざるを得なかった。槇村正直は、明治二年にわが国最初の学区制小学校64校を開校させたほか、京都復興のために尽力した。
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東京奠都とその影響

東京に都を移さなければクーデターが起きてもおかしくなかった~~東京奠都3

江戸城開城後旧幕臣は各地に移転し、各藩の大名屋敷も空家となり、市街の商店等も店を畳んで、江戸は荒廃していった。市民の生活は苦しくなるばかりで、薩長二藩を伐って政権を奪取しようと企てる者が全国各地にいて、皇族の中にも賀陽宮朝彦親王は薩長政府を打倒しようと画策していたことが露見し、仲間と共に捕えられた。当時の国内情勢を考えると東京に都を移すことは必要なことであった。
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東京奠都とその影響

東京遷都を警戒したが最後は政府に騙された京都の人々~~東京奠都2

明治二年に再び天皇が御東幸することが決まると、京都市民らが、東京遷都の決行であると考えて中止を請願したのだが、二度目の御東幸は強行され、九月には皇后の東京行啓が決定された。京都の人々は再び動揺し行啓の中止を嘆願したが、大嘗会でまた天皇が還幸されると説得されている。しかし、大嘗会は明治四年に東京で行われ、京都の人々は完全に政府に騙されたと言える。
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東京奠都とその影響

明治新政府が戊辰戦争の最中に江戸を都にすることを決めた経緯~~東京奠都1

大久保利通は鳥羽伏見の戦いから三週間もたたない時期に、人心一新のために大阪遷都の建白をしたが、反対が多く決議されなかった。その後前島密らが江戸遷都論を唱えたが、江戸城が無血開城したのち江藤新平・大木喬任が江戸城を以て東京と定め、東西両京の間に鉄道を開通させよという案を提出し、この案が決議されている。明治天皇は「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発したが、どこにも遷都の文字はない。
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明治初年の外国人殺傷事件

相次いだ外国人殺傷事件と五箇条の御誓文

五箇条の御誓文は大政奉還から五か月近くも経過してから発布されている。当時は新政府周辺に外国との交際を拒絶する者が少なくなく、「開国和親」という方針が決定してもそれに抵抗する動きが強かった。しかし、その後も外国人襲撃事件が相次ぎ新政府の危機を経験したタイミングで木戸孝允が動き、由利・福岡の案を修正し、五箇条の御誓文が発布されている。
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戊辰戦争

英公使パークスの激怒と江戸城無血開城との関係

慶応四年三月十五日に江戸城を総攻撃することが決まり、木梨精一郎(長州藩士)が東海道先鋒参謀・西郷隆盛の命を受けて三月十四日に、横浜の英国公使館を訪ねている。木梨は、明日以降の傷病者の手当てをパークス公使に要請したのだが、パークスの怒りが爆発した。この怒りにより、江戸城総攻撃の中止とは無関係ではない。
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戊辰戦争

慶喜がひたすら恭順を示したにもかかわらず江戸城総攻撃に向かう東征軍

徳川慶喜は慶応四年一月六日に大坂城を脱出し十二日に江戸城に入ったが、ここでも家臣の大半が主戦論を主張し、勘定奉行の小栗忠順は、海軍力と伝習隊で勝利する作戦まで提案し、ロッシュ仏公使からは武力支援の申し出があったが、慶喜には戦う選択肢はなく、徹底して恭順の姿勢を示そうとした。東征軍が江戸に向かう途中で西郷の指示で木梨精一郎がパークス英公使に向かうが、パークスは激怒した。
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戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍が敗れた理由

大坂城内の兵士らが叫ぶ「討薩」の声が一段と大きくなり、慶応四年一月元旦に慶喜は討薩の表を携えて上京することを命じている。二日に大坂城を出発したが、朝廷からも上洛の催促があったので、戦うことは想定していなかった。しかし途中で薩摩軍が道を阻み、夕刻にいきなり大砲を発射したのである。兵の数では旧幕府軍が優ったが、最新兵器を大量に持つ薩長相手に総崩れとなる。
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王政復古の大号令

王政復古の大号令が発せられた直後の情勢

王政復古の大号令の後に開かれた小御所会議で慶喜の辞官納地が決定した情報が瞬く間に広がり、慶喜のいる二条城に旗本や諸藩の武士が集まった。城内は殺気立ち、武力衝突の危険を避けるために慶喜は大坂城に退いた。その後岩倉は、慶喜の官位問題に妥協的な姿勢を示したが、西郷・大久保はそれを許さなかった。江戸で暴行盗難事件を仕掛けて、薩摩藩邸が焼き打ちにされたことから事態が動き出す。
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王政復古の大号令

周到に準備された王政復古の大号令

慶喜が大政奉還したのち朝廷より諸侯会議の招集がされたが、上京を辞退する大名が相次ぎ、会議が開催されないまま事態が推移した。その間討幕派は兵を京都に集め、クーデターの準備を進めていた。慶応三年十二月八日の夕方からの朝議が翌朝に終了し、佐幕派の公卿らが退出したのち御所の門が閉じられ、赦免されたばかりの岩倉具視が参内し「王政復古の大号令」を発し、新政府の組織が発表された。
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王政復古の大号令

大政奉還から王政復古の大号令までの公議政体派と討幕派の動き

英仏公使は慶喜が大政奉還したことを評価し、その後も慶喜が主導権と取ると予想したが、朝廷が諸大名を招集して衆議公論により王政復古の策を定めようとしたが、大名が集まらない。一方薩摩藩・長州藩には「討幕の密勅」が渡されており、薩摩、長州、芸州の三藩が政変の為の出兵同盟を締結し、兵を送り込んでいる。「ええじゃないか」騒動と龍馬の暗殺はこの頃に起きている。
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最後の将軍・慶喜の時代

徳川慶喜は大政奉還後も主導権を握ることができると考えていた

土佐藩は将軍慶喜に大政奉還を建白することを決定し、後藤象二郎が京都に向かった。徳川慶喜は以前から政権を奉還をする考えがあり、土佐藩の建白を機にそれを決断して大政奉還上表文を十月十四日に朝廷に提出した。慶喜は大政奉還後も大名の大半は幕府支持であり、その後も主導権がとれると考えてその決断をしたのが、討幕派は討幕の密勅を出し、武力を背景にして政権を奪い取ろうとした。
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最後の将軍・慶喜の時代

倒幕派とイギリス、及び大政奉還の建白書を提出した土佐藩の動き

薩摩藩の倒幕派は英国パークス公使が慶喜を高く評価していることに危機感を覚えていて、西郷隆盛がサトウを挑発して英仏を離間させることに成功した。しかしながら、倒幕派には幕府を倒すだけの軍事力が不足しており、諸藩の大半が「佐幕勤王」であった。一方土佐藩では後藤象二郎が幕府が大政奉還を行う考えを述べるようになり、それが土佐藩の藩論となり将軍に建白書を提出することとなった。
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最後の将軍・慶喜の時代

フランスの指導により軍隊改造に取り組んだ幕府が倒幕派に勝てなかった事情

慶応二年六月より始まった第二次長州征伐の前に、長州藩は英国の武器商人グラバーより大量の最新鋭武器を入手している。この銃の銃身にはライフリングが施され、椎の実型の銃弾を用いるもので、射程距離は従来の銃の数倍あり命中精度も高かった。幕府軍は人数では長州軍を圧倒したが連戦連敗し、将軍慶喜はフランスの指導による軍制改革を決意したが、倒幕の機運の高まりを抑えきれなかった。
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最後の将軍・慶喜の時代

英国公使が幕府支持に傾いた理由と倒幕を急ごうとした在京の薩摩藩士

慶応三年一月に孝明天皇が崩御され、将軍・徳川慶喜は大坂城に四カ国の代表を引見し、その席で兵庫開港を含む条約義務の遵守を約束した。慶喜は各国公使から高く評価されたが、兵庫開港については薩摩藩の事前工作があり大揉めにもめたが、なんとか勅許を得た慶喜は、兵庫開港と大坂の開市に向け動き出した。一方在京の薩摩藩士は、兵庫が開港されるまでに幕府を倒す事を決したのである。
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公武合体と尊皇攘夷

皇女和宮を将軍徳川家茂に降嫁させたことが幕府の権威失墜を招いた

老中・安藤信正は井伊直弼の剛直な武断政治を改め、さらに公武合体の成果を国内に示すために和宮を将軍・徳川家茂へ降嫁させようとした。この話は孝明天皇に一旦却下されたが幕府は諦めず、和宮周辺の説得工作を続けて再度を奏請している。岩倉具視らは、朝威を回復する好機とであると上奏し、天皇は攘夷を行うことを条件とすると幕府はそれを承諾し、天皇は和宮の降嫁を勅許した。
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