大正時代~第二次大戦

支那事変(日中戦争)

蒋介石と唐生智は何を狙って南京を脱出したのか 南京戦を考える4

南京から逃亡した最高指揮官の唐生智は処刑されずに栄転した唐生智 Wikipediaより そもそも南京防衛戦の最高指揮官でありながら無責任にも南京から逃亡した唐生智は、多くの兵士を死...
支那事変(日中戦争)

蒋介石と唐生智は日本軍と戦う前に南京を脱出していた  南京戦を考える3

昭和十二年(1937年)八月に発生した第二次上海事変で日本軍は苦戦を続けていたが、相次ぐ増派により攻勢に転じ、ようやく十一月九日に上海全域を占領している。しかしながら上海線における...
支那事変(日中戦争)

大量の中国兵の死体の山が残されたのはなぜか 南京戦を考える2

挹江門ゆうこうもん事件に関するニューヨーク・タイムズの記事 前回の「歴史ノート」で台湾の「佛網電子商城」というサイトに「南京唯一の脱出路であった下関シャーカン付近では、日本軍が南京...
支那事変(日中戦争)

日中戦争における中国兵の戦い方 南京戦を考える1

中国兵の書いた日中戦争体験記 『敗走千里』 GHQ焚書処分された本の中に、中国人の陳登元が日中戦争の戦争体験を綴った手記を『敗走千里』という本がある。この本は昭和十三年に刊行されて...
支那事変(日中戦争)

蒋介石が招聘したドイツ軍事顧問団は対日戦を求めていた

前回の「歴史ノート」第二次上海事件にドイツ軍事顧問団が関わっていたことを書いた。 蒋介石は顧問団の進言を受けて、この戦いで一般市民の犠牲を出すことも厭わず、嘘のプロパガンダで日本軍...
支那事変(日中戦争)

蒋介石が日本軍と上海で戦いたかった理由~~第二次上海事件

前回の歴史ノートで、一九三七年七月七日の盧溝橋事件からわずか三週間の間に多くの日本人が虐殺されたことを書いた。とりわけ七月二十九日の通州事件では通州の在留日本人・朝鮮人三百八十人の...
支那事変(日中戦争)

盧溝橋事件の後の和平交渉がうまく行かなかったのはなぜか

教科書における盧溝橋事件の解説 昭和十二年(1937年)七月七日深夜に起こった盧溝橋ろこうきょう事件を発端としてわが国と中国との間の武力衝突が拡大していったのだが、たとえば『もうい...
戦争と共産主義

ゾルゲ諜報組織はアメリカまで伸びていた

チャールズ・ウィロビー少将はダグラス・マッカーサー大将の情報参謀で、戦後はGHQ参謀第2部 (G2) 部長として対日謀略や検閲を担当したが、わが国で共産主義勢力を増長させようと動い...
戦争と共産主義

昭和七年以降日本共産党でリンチ事件が頻発した事情

前回の「歴史ノート」記事の最後に、昭和八年(1933年)の十二月に日本共産党の宮本顕治・袴田里見らが仲間をリンチにかけて殺害した「日本共産党スパイ査問事件」のことを書いた。この事件...
戦争と共産主義

特高警察の取調べの際に用いられた暴力はどの程度のものであったのか

このブログで宮下弘の『特高の回想』の文章を何度か引用させていただいたのだが、この本を読むまでは「特高(特別高等警察)」という存在は悪いイメージしかもっていなかった。その理由は、「日...
戦争と共産主義

中国共産党に繋がる諜報ルートが解明できなかった事情

前回の「歴史ノート」で多くの共産主義者からの転向組が陸軍に入り込んだことを書いた。そしてその前の記事で、ゾルゲ諜報団が一斉に逮捕されたことを書いたのだが、特高は併行して中国共産党に...
戦争と共産主義

陸軍に共産主義からの転向者が入り込んだ影響

前回の「歴史ノート」で『近衛上奏文』の内容について紹介させていただいたのだが、近衛内閣のブレーンには多くの共産主義者がいたのは近衛の人脈に問題があり、近衛自身が重要人物を政治の中枢...
戦争と共産主義

軍部や官僚に共産主義者が多数いることを昭和天皇に上奏した近衛文麿

以前このブログでソ連のスパイであった尾崎秀実が獄中で書いた手記のことを書いたが、今回はこの尾崎を重用していた近衛文麿が、昭和二十年二月に天皇陛下に上奏した『近衛上奏文』についてその...
戦争と共産主義

ゾルゲ諜報団の一斉検挙と戦後日本の言語空間

前回の記事で、北林トモの供述に基づき宮城与徳が逮捕されたのち、宮城は仲間のこと等について固く口を閉ざしていたことを書いた。では何がきっかけで、宮城が供述を始めることになったのか。宮...
戦争と共産主義

ゾルゲ、尾崎秀実らが一斉検挙に至った経緯について

前回の歴史ノートでソ連のスパイ活動をしていた尾崎秀実が獄中で記した手記の一部を紹介した。この尾崎秀実を自白させたのは特高第一課係長であった宮下弘という人物だが、特高はその前に、アメ...
戦争と共産主義

コミンテルンのスパイ・尾崎秀実にとっての第二次世界大戦

今回はゾルゲ事件の首謀者の一人として昭和十六年(1941年)に逮捕され昭和十九年(1944年)に死刑に処された尾崎秀実おざき ほつみが、昭和十七年(1942年)三月か四月頃に獄中で...
戦争と共産主義

関東軍はコミンテルンの工作活動の重要な対象であった

張作霖爆殺事件 以前このブログで、昭和三年(1928年)六月四日に起きた「張作霖爆殺事件」について三回に分けて書いた。 通説では日本軍(関東軍)が張作霖を暗殺したとされているのだが...
戦争と共産主義

二・二六事件と中国の西安事件でわが国が戦争に引き込まれる準備が整った

昭和十年(1935年)七月から八月にかけて第七回コミンテルン大会が開催されたが、この大会の後でわが国と支那で起こった事件を調べてみると、不可解な事件や重大な出来事が相次いでいること...
戦争と共産主義

昭和天皇が二・二六事件の叛乱軍討伐を命じられた

前回の「歴史ノート」で、竹山道雄が『昭和の精神史』で昭和天皇が二度だけ例外的に御親政を行われたと書いていることを紹介した。その「二度」というのは、「二・二六事件の際と終戦の際」だと...
戦争と共産主義

なぜわが国軍隊の暴走を止められなかったのか

これまで、昭和時代の初期に学生や兵士等に赤化工作が行われ、若い世代を中心に共産主義思想が拡がっていったことを書いてきた。このことと日本軍の暴走したことと関係があるのではないだろうか...
戦争と共産主義

コミンテルンは全世界に共産主義を拡散させようとした

これまで、ソ連・コミンテルンがわが国の教育機関や軍隊に対して盛んに赤化工作を行ってきたことを書いてきたが、同様な工作を全世界レベルで行っていた。今回は彼らの世界の赤化工作について書...
戦争と共産主義

コミンテルンによる日本軍への赤化工作を考える

コミンテルン第六回大会の決議内容 「コミンテルン」は「第三インターナショナル」あるいは「国際共産党」とも呼ばれ、世界の共産主義国化のために一九一九年にモスクワで結成された共産主義運...
戦争と共産主義

満州事変後に共産主義者が大量に愛国陣営に流れたのはなぜか

前回記事で、昭和初期のわが国で多くの若者が左翼思想に共鳴し、全国の学校だけでなく軍隊にも赤化工作が行われていたことを書いた。当時は私利私欲で動く政治家が政争を繰り返し、庶民は貧困に...
戦争と共産主義

昭和初期に多くの若者が左翼思想に共鳴したのはなぜか

前回記事で、小学校から大学まで多くの赤化教員が潜り込んで生徒に左翼思想が拡げられたことなどを書いた。 では、コミンテルンが日本共産党に指令した赤化工作が、実際のところ当時の生徒たち...
戦争と共産主義

ソ連・コミンテルンによる教育機関の日本赤化工作

前回は一九二八年(昭和三年)の七月から九月にかけてモスクワで第六回コミンテルン大会が開催され、七月には長春、奉天、鉄嶺、安東の日本軍に対して赤化宣伝文書が大量配布されたことが国民新...
戦争と共産主義

ソ連・コミンテルンによる初期の日本赤化工作

「赤化せっか」という言葉は今ではほとんど死語になってしまったが、共産主義的な思想や機構を広めていくことを意味している。戦後に出版された本やマスコミの解説などで触れられることはほとん...
支那排日

我が国の国際連盟脱退までの米国及び支那の動き 支那排日9

張学良はなぜ山海関事件を起こしたか 前回の「歴史ノート」で、一九三二年十一月二十一日から開催された満州問題に関する国際連盟理事会において日本全権松岡洋右との論戦に勝てず、英仏が日本...
支那排日

第一次上海事件後の支那の動き 支那排日8

前回の「歴史ノート」で、一九三一年のアメリカの対支輸出額が、それまで首位であった我が国を抜いて一位になったことを書いた。このことは支那で行われた日貨排斥運動がなければなし得なかった...
支那排日

アメリカが対支貿易額で日本を追い抜いた 支那排日7

国際経済戦の中で行われた支那排日 前回の「歴史ノート」で、昭和七年一月に第一次上海事変が起きるまでの支那の排日運動の状況について書いたが、この事変が起きたことで再び排日運動が活発化...
支那排日

支那排日運動の背後で動いていたのは何処の国か 支那排日6

前回の「歴史ノート」で、昭和六年に柳条湖事件が起きてわが国は満州事変に巻き込まれて行くのだが、支那の排日貨運動再び激しくなりより徹底化される一方、支那はソ連や英米に接近して日本を孤...
支那排日

満州事変後に支那排日運動が再び激化した  支那排日5

一面抵抗、一面交渉 前回の歴史ノートで満州事件のきっかけとなった柳条湖事件が起きるまでの支那の排日運動がいかなるものであったかについて述べて来たのだが、満州事変以降は支那の排日運動...
支那排日

支那の排日運動はどのように変化していったか 支那排日4

大正八年(1919年)の排日運動 前回の歴史ノートで西安事件で蒋介石が張学良に拉致されたあと第二次国共合作が成立したことを書いたが、今回はそれまでの排日運動で実際にどのようなことが...
支那排日

日貨排斥から抗日戦へ 支那排日3 

前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まって以降日貨排斥が行われることになり、そのやり方が次第に過激になっていったことを述べたが、昭和十年(1935年)以降になると排日運動は次第...
支那排日

支那の排日運動の主役が共産勢力に変わった 支那排日2

前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まったのは大正八年(1919年)で、当時北京の支那人の家に下宿した長野朗の『支那三十年』(GHQ焚書)によると、初期における支那の排日運動の...
支那排日

支那の排日運動は英米が仕掛けて広がった 支那排日1

五四運動から支那の排日運動が始まった 支那の排日運動が本格化したのは大正八年(1919年)からなのだが、中国研究者の長野朗が昭和十七年に著した『支那三十年』に、支那で排日運動が起こ...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯⑧ その後の張学良・蒋介石の動き

総会決議前後の張学良の動き 前回の記事で一九三三年二月二十四日に国際連盟総会において松岡洋右が最後の演説を行い、そのあとで満州問題に関する報告書草案の採決が行われ、賛成四十二票、反...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯⑦ 最後の松岡演説と連盟脱退

前回に引き続き、一九三三年二月二十四日に開かれた国際連盟特別総会に於ける、報告書草案採決直前の松岡の最後の演説の紹介を続けることしたい。国際連盟の満州認識について 松岡はリットン報...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯⑥ 総会を意識した張学良の動きと最後の松岡演説前半

運命の国連総会の日が決まる 前回の「歴史ノート」で、昭和八年の正月以降の支那やアメリカ、国連事務局等の動きを書いたが、アメリカが圧力をかけたことで国際連盟の委員会の流れが一気に変わ...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯⑤ 山海関事件とアメリカの干渉で流れが変わった

山海関事件「神戸大学新聞記事文庫」外交122-3 前回の「歴史ノート」で、一九三二年十二月八日の国際連盟総会における松岡洋右の演説とその直後の支那の動きを書いたのだが、一九三三年の...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯④ 論戦では松岡が圧倒したが多数派工作が始まった

11/23国際連盟理事会における松岡演説 前回、前々回の歴史ノートで昭和七年(1932年)十一月二十一日の国際連盟理事会における松岡洋右の演説のポイントを纏めてみたが、その日に中国...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯③ 我々は侵略者ではない

前回の「歴史ノート」で国際連盟理事会でわが国の全権松岡洋右が昭和七年十一月二一日に演説をした内容の前半部分のポイント部分を紹介させていただいたが、今回はその後半部分について書くこと...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯② 支那の内乱と排日運動の実態

「リットン報告書」に批判的な海外論調が少なくなかった 前回の記事で、一九三二年十月一日に「リットン報告書」が国際連盟に提出され、わが国はその内容を不服として意見書を提出したのだが、...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が国際連盟を脱退した経緯① 満州国独立承認と「リットン報告書」に反論

前回の歴史ノートで、「リットン報告書」はその調査姿勢にそもそも問題があり、予想されていた通り報告書は支那に有利な内容となったのだが、世界の論調はこの報告書に批判的なものが少なくなか...
満州事変から国際連盟脱退

リットン調査団は満州でトラブル続きだった

前回の「歴史ノート」で、「リットン報告書」の内容はどのようなものであったかについて書いたのだが、調査団が決して公平中立的な立場で情報収集していなかったことは、当時の新聞にもしっかり...
満州事変から国際連盟脱退

「リットン報告書」には何が書かれていたか

リットン調査団の派遣 一九三一年昭和六年九月十八日に満州事変の発端となった柳条湖事件が起きたのだが、その三日後に支那政府は紛争の拡大防止を国際連盟に提訴している。それを受けて国際連...
満州事変から国際連盟脱退

中国が満州国を「偽満州国」「傀儡国」と呼んだ事情

満州はいつから漢民族が支配するようになったのか 紀元前三世紀に中国を統一した秦の始皇帝は、遊牧民が生活していた満州・蒙古を統一することが出来ず、彼らによる北方からの侵入を防ぐために...
満州事変から国際連盟脱退

満州各地で独立運動が起きたのはなぜか

張学良軍が総崩れとなった理由 一九三一年九月十八日、奉天から北東に八キロ程の柳条湖で、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破された。この付近の警備に当たっていた関東軍守備隊は大隊本部...
満州事変から国際連盟脱退

米国外交官が記した柳条湖事件の真実

柳条湖事件が起きるまでに満鉄施設が何度支那人に襲われたか このブログで何度か昭和六年(1931年)に満州事変の発端となった柳条湖事件のことを書いてきた。 繰り返しになって申し訳ない...
満州事変から国際連盟脱退

満州民族の故地・満州の人口の九割が漢民族となった経緯

前回記事で、満州は満州族の故地で漢民族はかつてわずかしか居住していなかったのだが、清末以降に大量の漢民族が満州に移り住むようになって、一九三八年頃には満州の人口の九割が漢民族となっ...
満州事変から国際連盟脱退

わが国が開拓した満州を狙っていた国々

わが国が「満州」の開拓を始めた歴史的経緯 「満州」という言葉は「州」の字が付くことから、地名と誤解されることが多いのだが、中国語では土地の名前ではなく民族名、即ち満州民族を意味して...