版籍奉還から廃藩置県、府県統合

版籍奉還から廃藩置県、府県統合

旧長州の奇兵隊が明治新政府に反旗を翻した事情

骨抜きされた木戸孝允の「版籍奉還論」  教科書などでは明治維新がスムーズに行われたかのように描かれているのだが、幕府が倒れて政権が朝廷に戻ったといっても当初において朝廷は軍隊を持っておらず、戊辰戦争の征東軍は勤王諸藩から兵を借りて、藩の軍費...
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徳島県が名東県と名称を変えたのち高知県に吸収され、その後再設置されるまで~~四国2

庚午事変の処分が終わり、明治四年十一月の第一次府県統合で徳島県は名東県に名称が変更され、二年後には香川県を併合した。しかしながら明治九年八月に名東県は廃止され、阿波国は高知県へ、淡路国は兵庫県に併合された。この措置によって阿波国人の受けた不利益は、言語に絶するものがあった。
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徳島藩蜂須賀家が治めていた淡路島がなぜ兵庫県に移されたのか~~四国1

明治政府にとって難治県とされた徳島県  上の図は四国の県の変遷をまとめたものだが、何度も県の統廃合が行われていて結構ややこしい。「淡路国」というのは現在の「淡路島」を意味するが、明治の初期に於いては、兵庫県ではなく徳島県の一部であったことや...
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鹿児島県に合併されてすぐ西南の役に巻き込まれた宮崎県の再設置運動

宮崎県の誕生  上の図は何度か紹介させて頂いた明治十二年(1879年)の日本地図だが、九州の南部に宮崎県が存在していなかったことがわかる。今回は宮崎県が鹿児島県に吸収合併されたのち復活に至るまでの経緯について書くこととしたい。  宮崎県は、...
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大久保利通暗殺事件と石川県の三分割 ~~北陸3

明治11年5月に、石川県の不平士族らが大久保利通を襲い殺害する事件が起き、その二か月後に町村編制法・府県会規則・地方税規則(「三新法」)が公布され、府県会の選挙が行われることとなった。その後各地で分県に関する議論に火が付き、14年に石川県から福井県が分離することが決まり、16年には富山県が分離することが決定した。
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石川県が明治九年に日本最大の県となった事情~~北陸2

明治九年に全国規模で大規模な府県統合が二度にわたり行われ、石川県は四月に新川県(現在の富山県)を併合し、八月には敦賀県(現在の福井県)の一部を合併して、旧石高二百二十万石の日本最大の県となっている。旧石川県のみならず、新川県(富山県)も敦賀県もいろいろ問題の多い県であり、それまでに大きな文化破壊が行われ、後には暴動が起きて多くの者が処刑された歴史がある。
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金沢県を石川県に改称し県庁を金沢から美川町に移した事情~~北陸1

明治四年七月の廃藩置県では金沢藩は金沢県、大聖寺藩は大聖寺県となり、十一月二十日に両県は廃止され金沢県が置かれ、能登半島のある北部を分離して七尾県が新たに設置されたのだか、翌年二月二日には金沢県は石川県と県名を変え、五月五日に県庁を石川郡美川町に移している。なぜ金沢から海辺の小さな町に移されたのかを調べると不平士族の問題に突き当たる。
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鳥取県の再設置の経緯と北海道開拓に送り込まれた鳥取士族たち~~鳥取県再設置2

明治九年の九月に鳥取県は島根県に併合されたのだが、藩政時代に於いて山陰で最大の藩は鳥取藩であり、格下の松江藩に吸収されたことは鳥取県人にとって屈辱的であった。併合後は鳥取の経済は衰退し、商家・士族の倒産が続出し、足立長郷が共斃社を設立し、鳥取県復県を内務省に建議したが、過激な活動をしていた彼らの案は受け入れられず、岡崎平内が愛護会を結成し、鳥取県再置を山縣有朋に嘆願した。
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鳥取県が消滅し、鳥取城が破壊され、鳥取最大の祭も失われた~~鳥取県再設置1

旧藩時代において鳥取藩は山陰地方で最大の藩であったのだが、明治九年九月六日に、格下であったはずの島根県の県令から鳥取県庁に宛てて「今般鳥取県は本県と合併される」旨の布告が届いたのだが、主に鳥取の士族はこの命令に憤った。それから五年間にわたり「鳥取県」が地図から消え、その間に鳥取城が破壊された。
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奈良県が消滅し再設置されるまでの経緯

古い貴重な文化財が数多く残されている奈良県は、明治9年に堺県に編入されて消滅し、さらに14年には堺県が大阪府に編入されてしまった。その後旧奈良県住民にとって重要な予算が削られることが相次いで、奈良県再設置運動が動き出す。しかし内務省で却下され、その後太政官、元老院に提出した請願書も認められず、明治20年の4度目の請願書でようやく再設置が決定した。
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廃藩置県で政府は県名や県庁所在地をどういう基準で決めたのか

明治四年七月に廃藩置県が行われた時は、府県の数が全部で三府三百二県であったのだが、その後わずか一年で八割近い県が消滅した。政府はどういう基準で新しい県名を決めたのかについて、宮武外骨が『府藩県制史』で朝敵藩・曖昧藩は従来の藩名をそのまま県名としなかったと書いているが、例外が少なくない。
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廃藩置県のような大改革が平穏無事に行われたのはなぜか

政府としては、版籍奉還後も実質的に存続していた封建的藩体制を廃絶させると同時に、大規模な反乱を鎮圧できるだけの兵力を中央に整えたかったのだが、政府軍を編成するには薩長の力に頼るしかなかった。薩摩藩の島津久光は廃藩置県に反対であったが、上京した西郷隆盛はそれに賛同し、不平士族による反乱の鎮圧を引き受けることによって廃藩置県を進める体制が整ったのである。
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明治二年から四年にかけての明治政府はいつ崩壊してもおかしくなかった~~廃藩置県への道

版籍奉還後の鹿児島藩、山口藩の混乱  前回記事で、明治二年(1869年)に行われた版籍奉還のことを書いた。伊藤博文や大隈重信は、これを機に封建的支配体制を一気に解体し、郡県制を布いて中央の統制権を高めることを望んだのだが、当時の情勢ではその...
版籍奉還から廃藩置県、府県統合

版籍奉還で封建制度を廃滅させようと考えた伊藤博文と大隈重信

木戸孝允は藩主・毛利敬親に面謁して版籍奉還を急ぐべきことを説き、さらに大久保利通等を説得して、薩長土肥の四藩が率先して版籍奉還を上奏することで話がまとまった。四藩のあと各藩から奉還上表が提出されたのち版籍奉還が勅許され、旧藩主をそのまま藩知事としたが、政府によって任命される地方長官と位置付け、旧藩主と旧藩士との主従関係が建ち切られたことに意義があった。