「リットン報告書」に批判的な海外論調が少なくなかった
前回の記事で、一九三二年十月一日に「リットン報告書」が国際連盟に提出され、わが国はその内容を不服として意見書を提出したのだが、満州事変以降の日支紛争について国連総会が開かれることが決定すると、総会で「日本の満州国承認の即時取消を要請する」決議を通過させようと多数派工作を仕掛ける国が出てきたことを書いた。国連の総会決議は大国も小国も均しく一票であり、総会でこの決議に持ち込まれると厄介なことになることは言うまでもない。
話が前後して恐縮だが、「リットン報告書」について海外でも主要国の新聞で、明らかに支那にとって有利な内容であることが指摘されていた。十月四日付の大阪朝日新聞には次のように報じている。
【連合ロンドン三日発】リットン報告書に関しデーリー・メール紙は報告書を手ひどくこき降ろし、左の如く痛論している
「神戸大学新聞記事文庫」外交120-8
リットン報告書は何の役にも立たない。同報告書は一部に予想されたほど反日的ではないが、同報告書が親支的偏見に支配されていることは明白である。一九〇四年の戦争に対し日本の莫大なる犠牲がなかったならば満洲は現在はサウェート連邦の一地方となっていたであろうという最も重大な事実を全く閑却したものである。報告書に支持されている建設的諸提案を実現するには今後多年にわたる外交交渉と数次の国際会議を要することはいうまでもない。その間日本の満洲における権益を維持する上に必要欠くべからざる治安の維持は支那の現状を以てしては到底不可能のことに属する。
この段階ではわが国の意見書は提出されていないのだが、イギリスのデーリー・メールがわが国が国連に提出したの意見書の内容と同様なことを書いているのは興味深い。そもそも支那本土では内乱が各地で起こって混乱していたのだが、支那政府に満州の治安に責任が持てるのか。
内乱続く支那の現状
わが国は日露戦争のあとのポーツマス条約(1905年)で鉄道などの利権を獲得し、その後四次にわたり日露協約を締結し、清国との間でも満州善後条約(1905年)や満州協約(1909年)で日本が認められていた権利に基づき、満州で道路や鉄道などのインフラを整え農地を開拓し、学校や病院を作り多くの企業を誘致するなど莫大な金額を投資し、多くの移民を送り込んできたのである。満州国における我が国の資産や利権及び居留民の生命と財産を、無規律で略奪行為を繰り返す支那兵に任せることが出来ないことは当然であった。
上の画像は、陸軍当局が最近の支那の政情について述べた大阪朝日新聞の記事だが、簡単に要約しておこう。
満州国は日本軍が駐留していたのでまだ治安は良い方であったのだが、支那本土は山東省、四川省、福建省などで内乱が続き、共産軍による掠奪行為は湖北省や福建省で頻発し、上海付近では匪賊が列車を襲撃して貨物を略奪する事件が起きている。にもかかわらず国民政府はがら空きで、各派暗闘を続けている状態だ。
「これでも近代国家といえるのか」と見出しに書かれているのだが、その通りだと思う。
11/21国際連盟における全権松岡洋右演説 支那の治安状況
日本政府と外務省は松岡洋右を全権とする代表団をジュネーブの国際連盟に派遣することを決定した。『松岡全権大演説集』(GHQ焚書)に、松岡が国際連盟で演説した原稿の訳文が掲載されている。松岡は13歳の時に渡米して苦労してオレゴン大学を卒業した経験があり、英語で演説が出来る数少ない政治家であった。
松岡は最初に十一月二十一日に理事会で第一回目の演説をしているが、国際連盟理事会というのは決議を行う会議ではなく、常任理事国五ヶ国(英仏伊独日)、および非常任理事国九か国の代表が椅子に腰を掛けたまま話し合う会議である。議決の必要なものは総会で決議することになる。
松岡洋右は戦後のわが国の歴史叙述では国際連盟の脱退を決めた極悪人扱いなのだが、もしその扱いが正しいのであれば松岡が国際連盟で行った演説を収録したような本をGHQが処分して戦後の日本人に読ませないようにさせる理由がない。むしろこの演説は真実を求める日本人に広く読んでいただきたい内容だと思うので、十一月二十一日の松岡演説の重要な部分を二回に分けて紹介させていただく。まず、松岡は支那の治安状況について次のように述べている。
支那国内は今、いわゆる軍閥と称する諸将領の乱立状態にある。外蒙古は次第にソヴィエト化しつつある。チベットは支那政府と現に戦端を開いている。トルキスタンに至ってはほとんど本国政府との交渉から疎外されている。しかも国民政府そのものに至っては、わずかに揚子江下流の数省における軍閥権力によって辛うじて成立しているに過ぎない。さらに山東は諸軍閥の係争の渦中にあり、四川も紛乱のうちにある。廣東政権は独立して中央に対立している。加うるにリットン報告書にもある如く『共産主義なる別個の恐るべき脅威』が存在しているのだ。
ワシントン会議の時代には、支那には共産主義の怖れは存在しなかった。…中略…現在では彼(蒋介石)は、支那人の指導者に率いられる共産運動と戦っている。しかしながらこの蒋介石が君臨し、国民党が支持するところのいわゆる国民政府は、上海における各国の駐屯軍を数年前、増加するの余儀なきに至らしめた彼等の法則を廃止するに至らなかったのである。
外国の軍隊――欧米並びに日本の――は三十年以上も支那に駐屯し来たった。また外国艦船は同様三十年以上も揚子江を遊弋し来たっている。これらの外国軍隊は、種々なる困難を冒して商取引に従事し、または旅行し来たるそれぞれの国の在支居留民に対し、その保護に任ずるのみならず、前首府たる北京または現首都南京に存在する各国公使館の保護に任じているものである。
そもそも、承認された国家の信認の下にある外国全権公使の生命が、各自国の軍隊の駐屯によって守護されねばならないというのは、実に異常な状態ではないだろうか。世界中他にどこにかかる状態があるだろうか。しかも支那国内に於ける陸海軍の駐屯は、単に形式だけの問題であろうか。『否』と言わなければならぬことを余は遺憾とする。かつて一九二七年、南京における各国領事官が国民軍の暴動化せる将卒のために襲撃せられ、そのため英米海軍が直接自らの手で、その領事や、館員妻子の生命を保護せねばならなかった事実を想起せざるを得ない。しかも匪賊や暴兵の外国商船に対する凌辱、暴行は尚やむところなかったのである。特に最近七年間にあっては、即ち国民政府がいわゆる『不平等条約』の廃棄を宣言して以来というものは、外国の艦船、英米並びに日本の艦船が、暴兵、匪賊と事端を醸した事実は無数にあったのである。
『松岡全権大演説集』大日本雄辯会講談社 昭和8年刊 p.6~8
わが国だけが支那に陸海軍を駐屯させていたのではない。自国民の生命財産を守るためにどこの国も軍隊を駐留させており、しかもわが国の軍隊は他国と比べて決して多くなかったのだが、そのような事実は戦後の日本人にはほとんど伝えられていない。
排日及び日貨排斥について
ついで松岡は、支那の執拗な排外運動について述べている。わが国は反日運動や日貨排斥で長年困らされてきたのだが、その問題についてはリットン報告書にも触れてはいる。松岡はリットン報告書の引用をした後に重要な指摘をしている。
実に国民政府には上下を通じて尖鋭な排外感情が浸透しており、しかも政府は青少年の心臓に、外国人に対する憎悪の念を注入することを孜々としてこれ努めている。
五千万に及ぶ支那青少年が、この過激思想の影響下に成長しつつあり、かくて最も近き将来における、実に恐るべき問題を作り上げつつあるのだ。…彼らの言うところの列国の不正行為に対抗するために、武力抵抗以外の方法がしばしばとられて来た。ボイコット、通商条約や修好条約に背反する敵対行為の一形式たるボイコット即ちそれである。その結果は多くの場合、普通、戦争と言われる状態よりもむしろ一層長期にわたる、一層悪性の、しかもその処置に一層困難な事態が現出されるのである。それは実に陰険極まる性質の戦争手段であると言える。
支那に居留する日本国民は、実に永年にわたってこの手段に悩まされ来たった。そのため時には日々の食糧にすら事欠くような羽目にさえ遭わされて来た。多くの日本人が、そのために事業の衰退零落の憂目に遭わされた。支那における日本人経営の工業は勿論、日本内地に於けるものも、それがために甚大な損害を蒙ったものが多数ある。中にはそれがために事実事業を破壊されたものすらある。
もしかかる事態が、日本商品の買い手の好悪に基づく、自発的ないし自然的な手段であるならば、我々はそれについて何ら苦情を持ち込むべき筋合いではないかも知れぬ。しかしながら事実は、この手段は国民党または、甚だしきは国民政府当局自らの手で奨励され、強制されつつある一つの制度であるというに至っては驚かざるを得ない。それは条約上の諸権益を外国の手で廃棄させるように仕向ける魂胆からの、国策の一手段として有効に使用されつつある。世界列国はこれを武力による戦争に対抗する手段としては条約に於いて認めていないところである。
余は本理事会にお訊ねしたい。ボイコットが官憲の力で、または半官的な方法で行われる場合、国際連盟は何ゆえにこれを咎め、これを不法と為すの挙に出でないのであるか?
同上書 p.10~12
このような支那における排外運動で被害を受けたのは日本だけではなかった。実は英国も米国も支那でボイコットの被害を受けていたのだが、貿易に於いて他国よりも支那との関係が強いわが国では、とくにこの数年間において支那で集中攻撃を受けて来た経緯にある。では満州についてはどうであったか。
…満州に於いては排外運動は専ら日本に集中されたのであった。
満州における独裁官であった張作霖が一九二八年に没するまでは、満州ではこの種の運動は禁じられていたものだった。この「老元帥」は賢明にもこれを厳禁していた。しかるにその息子たる「若き元帥」張学良が親父の領地と権力を継ぐや、彼は蒋介石と締盟し、支那本土から官吏を満州に入れることを許し、直接反日運動を指揮せしむるに至った。日本が満州で獲得した一切の権益が「奪回」せられんとするに至った。鉄道、鉱山、その他各種の企業に対する投資――それら事業はすべてこれ迄支那国民にとって莫大な恩恵を寄与したものであるが――が剥奪されんとする危機に瀕した。日本人は徐々に国外に責め出されつつあった。そのためのパンフレットや新聞が印刷され流布された。ポスターが街々の壁に張り出された。公開や非公開の演説がそのために方々で催された。排外運動に訓練と経験を持った宣伝員たちがこの運動を指導した。三十万を以て数える張学良麾下の軍隊が、この運動方針を教え込まれたのである。…中略…日本は満州におけるわが権益財産を、かつて譲渡する意図を抱かず、またこの旨をしばしば明言してきたところである。日本は張学良自身に対し、またその部下の軍憲や官吏に対し公式に警告した。日本はまた、満州は軍事上並びに経済上、日本自身にとって重大な生命線であるとし、かつこの地域に於ける日本の有する特殊地位は、絶対不変であることを中外に宣明しているのである。
とはいえ、日本は元来条約に認められた権益並びに自己の財産を確保する以外には、何らの野心をも有せざることは繰り返し声明して来たところである。日本は満州の主権が支那にあるという実質なき虚構をも、一応承認して異議なかったのである。日本はまた、あらゆる国民の通商に関して門戸開放、機会均等の国際原則を忠実に守って来た。
日本は少なくとも、同じ立場に置かれた西洋列国がなしうるだけの忍耐を持続して来た。
同上書 p.13~15
前述した通りわが国はロシアと清国との条約に基づき獲得した権利の範囲内で鉄道や鉱山などの開発をし、農地の開発をし、インフラを整備していたのである。張作霖が満州を支配していた時代は条約を一方的に破るような問題は起こらなかったのだが、張学良の時代になって、過去の条約を無視して日本の利権を剥奪する行為が頻発するようになったのである。満州鉄道は毎週のように襲撃され、日本企業は何度もボイコットや日貨排斥で損害を受け、さらに邦人居留民が襲われる事件も何度も起きており、死者も出ていた。
我慢強い日本人もとうとう堪忍袋の緒が切れ、支那兵によって柳条溝で満鉄線路が爆破されたタイミングでついに日本軍が動いた。わが国では柳条溝事件について、板垣征四郎や石原莞爾が他界した後にある雑誌に掲載された論文がきっかけとなって日本軍の自作自演ということに書き換えられてしまったが、当時に於いては支那兵が爆破したことを支那以外の主要国は疑っておらず、「リットン報告書」もその認識で書かれていることを知るべきである。この点については、このブログで何度か書いたので過去記事を参照願いたい。次回は、松岡洋右が満州事変について国連でどう述べたかについて記すこととしたい。
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