アメリカ

国会図書館デジタルコレクション

第二次世界大戦に至るまでにユダヤ人は何をしてきたか~~「国際秘密力研究叢書」を読む3

 前回に引き続き、国際秘密力研究叢書の本の内容を紹介したい。今回採り上げるのは、この叢書の中で唯一GHQが焚書処分した『今次大戦と裏のニュース 【世界猶太(ユダヤ)情報】』(国際秘密力研究叢書10)という本である。 この本は、一九三九年九...
中国排日

中国の排日運動がその後反帝国主義運動となり日本だけが排斥された経緯

中国の排日運動は、当初は英米が中国大陸から日本を排除する目的で仕掛けたものだが、中国大陸の赤化を狙っていたソ連が中国共産党に反帝国主義運動を始めさせ、最初にイギリス租界に鉾先を向けた。イギリスは租界を返還して反英の動きを止め、さらに蒋介石を抱き込んで、鉾先を日本に向けさせた。
第一次大戦後の米国排日

関東大震災で日本支援に動いたのち米国黒人が白人に抵抗できなくなった経緯

米国黒人たちは彼らの尊厳を認めてくれる日本人を尊敬するようになっていた。1912年に関東大震災が起こり全米で日本に義捐金を送る動きがあったが、黒人向けメディアが日本支援を呼び掛け、貧しい黒人たちも立ち上がった。しかしながら、連邦政府は「排日移民法」を提出し、黒人と日本人とを引き離そうとした。
第一次大戦後の米国排日

パリ講和会議で人種差別撤廃提案が否決されたのち米国で黒人暴動が多発した

第一次大戦後開催されたパリ講和会議で、わが国は国際連盟規約に人種差別撤廃を明記させようと動き、参加国の多数の賛同を得たものの、議長のウィルソン米大統領は全会一致でないことを理由に否決した。世界の有色人種はこの決定に失望し、米国では各地で暴動が起き、エジプトやインド、パレスチナなどでも暴動が起きた。
初期の米国排日

アメリカの黒人知識人たちは日露戦争後の排日運動をどうとらえたか

アメカの黒人たちは日露戦争に日本が勝利したことは、白人が有色人種を支配する神話を打ち砕いたとして歓迎し、日本人の後に他の有色人種が続いて白人優位の世界が崩壊していくことを期待した。白人たちはそうさせないために、『黄禍論』を全米に広めて、日本人とアメリカ黒人たちの分断を図った。
初期の米国排日

日露戦争後に激化したカリフォルニア州の排日運動をアメリカの知識人はどう捉えていたか

『日米開戦の人種的側面』によると、カリフォルニア州の移民の1/4がアイルランド系で、サンフランシスコ市の労働運動をリードしていて、日本人排斥に特に熱心であった。このカリフォルニア州の排日運動が、マスコミにより1907年以降全米に広がるのだが、アメリカの「オレンジ計画」と無関係だとは思えない。
初期の米国排日

日露戦争中に始まったカリフォルニア州地方紙の排日キャンペーン

カリフォルニア州への支那移民が禁止されると、代わって日本人が移住するようになった。しかしながら労働組合が低賃金で働く日本人を問題にするようになり、同州の新聞で排日キャンペーンが開始された。満州に商業的利益拡大を図っていた米国は、同州の排日の動きを利用し、その後全米に人種差別を煽って反日感情を焚きつけていく。
初期の米国排日

鉄道王ハリマンの夢を打ち砕いた小村寿太郎

米国の鉄道王と呼ばれたハリマンが、ポーツマス会議の最中に訪日している。その目的は、彼の描いた世界一周通路の中の一つである南満州鉄道を日米共同で経営することを日本政府に提案するためであった。桂首相や井上馨はその提案に賛成し、桂は覚書に署名したが、ポーツマス会議から帰国した小村は反対した。
義和団の乱から日露戦争

講和会議の交渉がわが国にとって厳しいものになることは当初からわかっていた ~~日露講和会議1

日本海海戦で日本海軍がバルチック艦隊を撃破すると、セオドア・ルーズベルト米大統領もそろそろ講和談判を開始した方が良いと考え、両国に講和談判を呼び掛け、ポーツマスで講和会議が開かれることとなったが、ロシアは当初から賠償金や領土割譲には応じないスタンスを崩さず、わが国は何度も譲歩を繰り返した。
義和団の乱から日露戦争

なぜ米大統領は金子堅太郎に日露開戦当初から日本が勝つと明言したのか

金子堅太郎が渡米して大統領の口から「今度の戦いは日本が勝つ」との発言が出たのに金子は驚いた。後日金子は旧友のヘンリー・アダムス宅の晩餐会に招かれ、アダムスよりアメリカの考えを詳しく聞く機会を得た。軍事力を比較するとロシアの方が優勢であったが、一年日本が頑張ればロシアで内乱が起きてもおかしくなく、どうすれば勝てるという秘策まで授かっている。
義和団の乱から日露戦争

日露開戦を決定した直後に戦争を終わらせる準備を怠らなかった伊藤博文

明治37年2月4日の御前会議で対露断交と開戦を決定した夕刻に、伊藤博文は金子堅太郎を呼び、すぐに渡米してほしいと告げた。伊藤はこれから戦争が何年続くかわからないが、もし勝敗が決しなければ両国の間に立って調停する国が必要となる。頼むところはアメリカしかない。君は大統領のルーズベルトと懇意の仲であり、直ちにそのことを依頼してほしいと告げた。
GHQ焚書

アメリカにおける人種問題~~「戦争文化叢書」を読む10

 アメリカには多種多様な民族が混在して暮らしており、学生時代に「人種のるつぼ」などと学んだ記憶があるのだが、今では「人種のサラダボウル」などと言われることが多いのだそうだ。 「るつぼ」という言葉には、様々な国の移民が入り込み1つに融合する...
GHQ焚書

戦前の日本人は主要国の外交政策をどう捉えていたか~~『少年満洲事変と上海事変』(GHQ焚書)を読む5

 今まで4回に分けて山県信敬 著『少年満洲事変と上海事変』(昭和11年刊)の内容を紹介してきたが、今回はその最終回で、著者が当時の主要国の外交姿勢について述べている部分を紹介したい。この本は青少年を対象に書かれている本であり非常に読みやす...
GHQ焚書

日露戦争後に日米関係がどう動いたか~~福永恭助著『挑むアメリカ』(GHQ焚書)を読む

 福永恭助は海軍少佐で退役した後、小説や軍事に関する評論などの著作を残しているが、戦前・戦中の作品34点のうち12点がGHQによって焚書処分されている。 また、国立国会図書館デジタルコレクションでデジタル化されていながらネット公開されてい...
GHQ焚書

GHQに焚書処分された米国留学経験のある新聞記者の本~~棟尾松治『アメリカの実力』

 GHQに焚書処分された米国関連書籍は結構多数存在するが、実際に読んでみると、戦後の日本人に知らされていない史実が満載である。今回は昭和十六年に上梓された、棟尾松治著『アメリカの実力』という本を紹介したい。 棟尾松治という人...
開国前後

ハリスが下田に来航後、なかなか通商条約談判を行うことが出来なかった経緯

ハリスは1855年に初代駐日領事に任命され、さらに通商条約締結のために翌年8月下田に来航した。しかし下田奉行は『日米和親条約』を理由に米領事の駐在を認めなかった。ハリスは粘って当面の滞在を許されたが、英国が日本と通商条約交渉を行う動きやアロー号事件の情報をオランダより入手し、老中首座・堀田正睦はハリスを上京させ、通商条約の審議を開始させた。
開国前後

ロシアと交戦していた英国との条約交渉と、わが国に海軍創設を提案したオランダ

1854年にイギリスの軍船が長崎に入港し、もしロシア艦が日本の港内にあれば攻撃することの許可を得たいとの上申書を提出した。長崎奉行・水野忠徳はイギリスも外交交渉に来たものと考えて条約交渉を開始し、日本の沿岸地域や港近辺が戦場とならないようにした。またオランダのファビウスは日本にも海軍を創設することを幕府に提案した。
開国前後

吉田松陰がペリーの乗るボーハタン号に向かったのは何のためであったのか

嘉永七年三月三日に全十二条からなる日米和親条約が締結され、その後和親条約の細則を固めるために、伊豆国下田の了仙寺に日米の交渉の場が移されている。そして三月二十七日に吉田松陰と金子重之輔はペリーの乗る軍艦に向かって小舟を漕ぎ、深夜に辿り着くもペリーは二人の海外渡航の希望を受け入れなかった。
開国前後

幕府に鉄道模型や電信機などを贈ったペリーとその後の幕府との交渉の行方

ペリーは日本との交渉を有利に進めるために大量の贈物を用意し、嘉永七年二月十五日に幕府側の委員に渡している。特に蒸気機関車の模型や電気通信機などには日本人は強い関心を持った。幕府もその返礼として、漆器類、陶器類、米などのほか火縄銃、日本刀、通貨などを贈っている。以後の交渉で、ペリーは要望していた即時開港をあきらめている。
開国前後

日米和親条約の締結とその和文・英文の重大な相違点

米初代大統領の誕生日に百発の祝砲が放たれたのち会見の場所が横浜に決定した。幕府は石炭、薪水、食料の供給や破船の難民救助については了解し、開港については議論を先延ばそうとしたのだが、ペリーは早期に五港を開くことを要求し、協議の結果下田と箱館二港の開港が決定した。日米和親条約が締結されたが、領事設置の条件に関わる11条については英文と和文で意味が異なっている。
開国前後

二度目のペリー来航が、約束していた時期より随分早まった経緯

ペリーの二度目の来日はかなり早まった。それはロシアのプチャーチンが長崎に来訪したとの情報を掴んだことによる。琉球ではオランダの総督より書状が届き、将軍が崩御したため幕府の要望により再来日を遅らせて欲しい旨が書かれていたが、ペリーは無視して江戸に向かう。江戸湾に入り艦隊を碇泊させ、幕府は浦賀で会見を行う旨主張したがペリーは拒否し、結局碇泊場に近い横浜村で行うことになった。
開国前後

久里浜会見の後ペリーはどう動き、幕府は開国の問題をどう解決しようとしたか

久里浜会見の後ペリー艦隊は東に向かい、三日間にわたり堂々と江戸湾を測量して琉球に向かった。琉球では強引に交易の自由を認めさせ、用地を取得して貯炭場を完成させている。一方幕府では米国大統領国書にどう対応するか意見が募られ、国防力を高めるために品川沖に海上砲台が建設され、軍艦の建造が奨励された。
開国前後

嘉永六年(1853年)のペリー浦賀来航

ペリー艦隊は戦闘準備を整えて嘉永六年六月三日に相模湾に入った。幕府役人は長崎に廻航する旨要請するも、ペリーは大統領の国書を将軍に渡すので長崎に向かう意思はなく、この文書を受納すべき人物を選任しないなら、武力をもって上陸し捧呈すると強硬に主張した。老中阿部正弘は戦争を回避するために国書を受取る判断を下した。
開国前後

ペリーには日本が抵抗すれば武力行使を行う権限が与えられていた

蒸気船が発明され、アメリカはハワイ・日本を給炭地として経由する太平洋航路の開拓に向かおうとした。ペリーの日本遠征目的は決して武力的侵略ではなかったが、もし日本が拒絶する場合には武力行使を行って、琉球及び小笠原諸島などを占領して海軍の根拠地を作り、シナに至る戦略上の要衝の地をアメリカの手で押さえる方針があり、ベリーには武力行使の権限が与えられていた。