王政復古の大号令

王政復古の大号令

王政復古の大号令が発せられた直後の情勢

王政復古の大号令の後に開かれた小御所会議で慶喜の辞官納地が決定した情報が瞬く間に広がり、慶喜のいる二条城に旗本や諸藩の武士が集まった。城内は殺気立ち、武力衝突の危険を避けるために慶喜は大坂城に退いた。その後岩倉は、慶喜の官位問題に妥協的な姿勢を示したが、西郷・大久保はそれを許さなかった。江戸で暴行盗難事件を仕掛けて、薩摩藩邸が焼き打ちにされたことから事態が動き出す。
王政復古の大号令

周到に準備された王政復古の大号令

慶喜が大政奉還したのち朝廷より諸侯会議の招集がされたが、上京を辞退する大名が相次ぎ、会議が開催されないまま事態が推移した。その間討幕派は兵を京都に集め、クーデターの準備を進めていた。慶応三年十二月八日の夕方からの朝議が翌朝に終了し、佐幕派の公卿らが退出したのち御所の門が閉じられ、赦免されたばかりの岩倉具視が参内し「王政復古の大号令」を発し、新政府の組織が発表された。
王政復古の大号令

大政奉還から王政復古の大号令までの公議政体派と討幕派の動き

英仏公使は慶喜が大政奉還したことを評価し、その後も慶喜が主導権と取ると予想したが、朝廷が諸大名を招集して衆議公論により王政復古の策を定めようとしたが、大名が集まらない。一方薩摩藩・長州藩には「討幕の密勅」が渡されており、薩摩、長州、芸州の三藩が政変の為の出兵同盟を締結し、兵を送り込んでいる。「ええじゃないか」騒動と龍馬の暗殺はこの頃に起きている。