アメリカ

開国前後

日米和親条約の締結とその和文・英文の重大な相違点

米初代大統領の誕生日に百発の祝砲が放たれたのち会見の場所が横浜に決定した。幕府は石炭、薪水、食料の供給や破船の難民救助については了解し、開港については議論を先延ばそうとしたのだが、ペリーは早期に五港を開くことを要求し、協議の結果下田と箱館二港の開港が決定した。日米和親条約が締結されたが、領事設置の条件に関わる11条については英文と和文で意味が異なっている。
開国前後

二度目のペリー来航が、約束していた時期より随分早まった経緯

ペリーの二度目の来日はかなり早まった。それはロシアのプチャーチンが長崎に来訪したとの情報を掴んだことによる。琉球ではオランダの総督より書状が届き、将軍が崩御したため幕府の要望により再来日を遅らせて欲しい旨が書かれていたが、ペリーは無視して江戸に向かう。江戸湾に入り艦隊を碇泊させ、幕府は浦賀で会見を行う旨主張したがペリーは拒否し、結局碇泊場に近い横浜村で行うことになった。
開国前後

久里浜会見の後ペリーはどう動き、幕府は開国の問題をどう解決しようとしたか

久里浜会見の後ペリー艦隊は東に向かい、三日間にわたり堂々と江戸湾を測量して琉球に向かった。琉球では強引に交易の自由を認めさせ、用地を取得して貯炭場を完成させている。一方幕府では米国大統領国書にどう対応するか意見が募られ、国防力を高めるために品川沖に海上砲台が建設され、軍艦の建造が奨励された。
開国前後

嘉永六年(1853年)のペリー浦賀来航

ペリー艦隊は戦闘準備を整えて嘉永六年六月三日に相模湾に入った。幕府役人は長崎に廻航する旨要請するも、ペリーは大統領の国書を将軍に渡すので長崎に向かう意思はなく、この文書を受納すべき人物を選任しないなら、武力をもって上陸し捧呈すると強硬に主張した。老中阿部正弘は戦争を回避するために国書を受取る判断を下した。
開国前後

ペリーには日本が抵抗すれば武力行使を行う権限が与えられていた

蒸気船が発明され、アメリカはハワイ・日本を給炭地として経由する太平洋航路の開拓に向かおうとした。ペリーの日本遠征目的は決して武力的侵略ではなかったが、もし日本が拒絶する場合には武力行使を行って、琉球及び小笠原諸島などを占領して海軍の根拠地を作り、シナに至る戦略上の要衝の地をアメリカの手で押さえる方針があり、ベリーには武力行使の権限が与えられていた。