満洲の漢人
清水久直著『満蒙開拓青少年義勇軍概要』(GHQ焚書)には、満洲には満州人も蒙古人も朝鮮人も漢人もいて、日本人は彼らの風俗なり習性なりの長所をよく理解し尊重し、かれらの生活の向上と福利を計る姿勢が無ければ、彼らと仲良く生活することは不可能であると書かれている。

もともと満州は満州族の故地でありかつては満洲人の人口が最も多かった。といっても満洲人は遊牧民族なので人口はそれほど多くなく数百万人程度であったのだが、その満州に、清朝末期以降大量の漢人が移住するようになり、昭和初期には漢人が満洲人口の圧倒的多数を占めるようにもなっていた。清水は、満洲の漢人について次のように記している。
三千万の漢人は何も日本人と争うために満洲へ流れて来たのではない。 ただただ生活して行くがため、そうしてそのためには厭でも日本人や朝鮮人と競走するより生きる道がないように為政者から逐いやられたからである。 元々何の咎もないのだ。 海山越えて山東や河北から兵乱や天災(水害と旱魃)や飢饉や軍閥の暴政を避けて老幼相擁し、 ささやかな寒具と道具を持って、黙々と何百里という道程を山を越え河を渉って歩いて来たのである。その中、体の弱い者や病人はのたれ死んで彼等だけがやっと辿りついたのだ。彼等は食うものも食へずに死活線上にさまよっていたのだ。「人少糧多」が彼等の憧れの満洲であったので何も戦争のために来たのではなかった。
あるときはロシアの東方進出の鉄道敷設に傭われたであらう。またある時は鉱山開発の人夫として傭われたであらうし、また支那の植民政策によって来たものもあらうし、満鉄の招致によるものもあろう。 ある時はまた食わんがため生きんがために軍閥の暴政から避けんとして日鮮人排斥をやったであらう。またある時はソ連の日本勢力駆逐の手に乗ったこともあったであろうが、元々彼等は貧乏な良民であったのだ。
彼等は所謂自然淘汰を切り拔けたところの、また生活のどん底を潜り抜けた者たちである。体は非常に強い。そしてまた非常に忍耐強い。生活のねばり強い点では恐らく世界一であらう。彼等は高梁飯と蒜とで暮らすことの出来る程極端に安上りの生活に慣れ、それでいてよくまああんなに働けるものだと驚く程勤勉に働くのだ。
清水久直『満蒙開拓青少年義勇軍概要』明治図書 昭和16年 p.20-21
支那本土では兵乱と悪政と自然災害により食べる物も少なく、生きることが厳しかった漢人の多くが、本土よりもましな生活できるのではないかと満洲に流れて行ったのである。満洲における漢人の人口はいつの間にか三千万人となり、満洲人口の八割以上が漢人になってしまっていた。
外蒙古に対するソ連の政策
「外蒙古」と「内蒙古」というのは、モンゴル高原をゴビ砂漠を基準に南北に分けた歴史的呼称だが、現在「外蒙古」は主権国家の「モンゴル国」を意味し、「内蒙古」は中国の「内モンゴル自治区」を意味している。

当時「外蒙古」はソ連と国境を接しており、ソ連から赤化(共産化)工作を仕掛けられ、ラマ教の大弾圧が行われ、土地や重工業を国営化されてしまったという。また、文中の「喇嘛(ラマ)教」とはチベットで発達した仏教の一派であり、ラマはラマ教の僧侶を意味している。
外蒙古に対するソ連の政策は、 今のところ外蒙古の経済的独占とシベリヤの脅威に対する軍事的理由に基づく諸施設が主であるが、その背後には、言う迄もなく外蒙古の完全なる赤化と、外蒙古を根拠地とする支那赤化経路の開拓とアジア赤化の大計画が蔵せられていることは明らかである。即ち外蒙古より内蒙古を経て北支に至る経路はソ連のアジア政策の一幹線であって、 満洲帝国の成立によって東方経路を失ったロシアは今後益々外蒙古の赤化を急ぐと共に北支進出に一層積極的となるであらろうから、ロシアのアジア政策に於ける外蒙古の意義は愈々明確となるのである。然らば、外蒙古の民衆はこの共産政治に對して如何なる態度を示しているであろうか。
元来蒙古人がロシアに頼って支那の支配を脱したのも一重に蒙古人の蒙古を守り、 蒙古の民族自治を欲したがためであったが、共産治下に置かれた彼等は、喇嘛および喇嘛教に大弾圧を加えられ、土地及重産業を国営に移されたため、共産主義に對しては不断の呪咀と反抗の嵐を投げかけている。
またソ連の教育を受け、 現在外蒙古の指導的地位にある青年知識階級達には、 敎育によって芽生えたところの明確なる民族主義、国家主義が台頭しつつある。
従って外蒙古が赤化したといっても、 真に赤化せる蒙古人は未だ決して多數ではない。不断に繰り返される反ソ、反革命暴動は、結局外蒙古民衆の伝統的、思想的背景のもとに於て起りつつあるが、悲しいかな彼等は組織と武器を有しないので、常にそれは無惨に粉砕せられ、外蒙古は依然として強力なる暴力政治の下に置かれているのである。そして彼等の保守士義も進取主義も、他の強力なる第三国の援助がなければ、彼等の多くは弱者の諦めに陷り、一部は自暴自棄の憤死を選ぶに至るであろう。
いわんやソ連の赤化教育を受けつつある次代の民衆が果して彼等の如く、保守的であり、民族主義者であるか否かは大なる疑問である。
要するに、ソ連の外蒙古赤化工作は未だ真に成功せるものに非ずして、単に政治的、経済的な支配権を獲得せるのみであり、民心はこれに反しているのである。
今後、外蒙古が真に赤化するか否かは、外蒙古を支配する政治の如何に懸る問題である。しかして、もし外蒙古が東亜赤化の根拠地となるならば、アジアの不幸は、この漠北の曠野から始まることになるであらう。
思いここに至らば外蒙に於けるこの事情が満洲国にとり、日本にとり、また東亜全局にとって如何に恐るべきものであるかといふことが頷かれようかと思う。
同上書 p.24-27
いずれ内蒙古も外蒙古と同様にソ連が赤化工作を進めて行くことは容易に想像できるし、そうなれば満洲にも日本にもその影響が及ぶことは避けられなかった。
満洲建国と義勇軍
かつては清朝が他民族間のバランスを取って統治していたが、清朝末期以降漢民族が大量に移り住むようになり、その後清朝が滅亡して中華民国が成立して満洲も内蒙古も中華民国の支配下に入った。とはいえ中華民国の支配は名目的なもので、満洲の実態は軍閥が割拠し暴政が続き治安は悪く、外国勢力による干渉および漢人移民は相変わらず続いていた。
わが国は日露戦争のあとロシアから受け継いで支那から得た権益と 、ロシアと日本が二代がかりで築き上げた鉄道中心の産業や交通などのインフラ整備に莫大な投資をしてきたのだが、漢人に権益を脅かされたり、満鉄が襲われるような事件が頻発していた。そこでとうとう一九三一年に満州事変が起きている。
満洲事変なくして満洲国の成立はなかった。
北支の第二十九軍は蘆溝橋付近に於て発砲した。支那は殆んど飛んで火に入る夏の虫の如く、その北支の運命を日本の手に委ねた。しかし今なお支那膺懲の叫びが山野を動かしている。そは何故か。
親善親善と徒に愛撫すれば狎れ柔を以ってすれば軽侮し付上るは彼等の特性である。故に此方の真意と好意とを理解せぬとこうだぞと酷い目に逢わせ、日本の海岸は到底危険にして近づくべからざるものだということを徹底的に知らしめると同時に、成程日本人のやることは大局に於て本当によいということを事実に示さなければ幾度戦争をしても更に拡大して戦争をせねばならないからだ。
本当によいということを世界に示すためには是非とも満州国をして所謂王道楽土たる建国の目的を達成せしめねばならない。満洲国は如何にして生まれたか。 そは、 もし日本帝国の授助が無かったならば到底覚束なき事実を告げれば足る。我国は国際連盟を離脱し世界を相手としてまでも満洲国の発生に是れ努めて来た。 日本帝国はその国運を賭して満洲国の存立を保証したのである。 これは日本が自ら進んでこれを負うべく引受けたものであり、その重荷が如何ばかり重きにせよ、皇国将来のため東洋平和のためを思うとき是非とも満洲国をして所謂王道楽土たらしめ、 世界列国に示さねばならぬ。
然らば満洲国を立派ならしめる第一条件は何か、 そは、 日本人が沢山行くことだ。 殊に農民が沢山行くことだ。 これが満洲の治安を維持し、 產業を興し、 交通を拓き、 日満提携の実を挙げるに最もよいのである。現今の状態は日本に与えられた大陸発展の最後の機会であり、これをやらねば満洲は立派にならないし、 大陸に於ける我が生命線の確保は出来ないのだ。
我が政府はこの比類なき機会を捉えた。 国民はこの千載に一遇の好機会を直観した。 国民の決意は出来た。 今や義勇軍送出の大号令は我等国民の愛国的爆発であり、 挙国一致の奮起であるのだ。
同上書 p.27-29

わが国としては、満州にもっと邦人移民を送り込みたかったのだが、満洲地区は抗日武装集団による襲撃事件が頻発していたこともあり、十分な希望者が集まらなかった。また満洲に移住した邦人の生命・財産、および満洲における我が国の権益を守るために関東軍の兵力を割くことにも限界があり、満蒙開拓青少年義勇軍の募集を開始したのだが、支那事変で多くの青少年が徴兵されていたこともあり、義勇軍のメンバーを募集しても思うように集まらなかった。しかしながら、当時は農村の貧困と人口過剰が問題となっており、地方農村から半ば強制的にメンバーを集めて満州に送り込んだことが少なくなかったようである。
満蒙開拓と義勇軍の歴史的使命

青少年義勇軍に選抜されたメンバーは、まず茨城県の内原訓練所で三ヶ月の学習と基礎訓練が行われた後、満洲国の現地訓練所にて三ヶ年の訓練を経て、義勇隊開拓団として入植していったという。入植先は危険な地域が少なくなかったようである。

清水は義勇軍の歴史的使命について次のように記している。
明治天皇は、
「万里の波濤を開拓し、 国威を四方に宣布し、 天下を富嶽の安きに置かんと欲す」
と仰せられた。
我々の運動の根本精神は単なる移民ではなく、 日本民族の理想信仰を大陸に植えんとする純然たる精神運動である。
この真意義がわかれば今後我々は義勇軍をどう生長せしめねばならねか、 またどう発展するであろうかも自ら見当がつくであらう。十五、六歳の少年が家を思い、郷里を思い、皇運扶翼のため、嬉々として大陸に渡る。それはなんという感激であろうか。この現実に動く根底的な日本人の無限の結束力、無限の持久力を、確保せんとする運動、それは我が義勇軍運動である。義勇軍の一人一人は、皇国の歴史的使命を荷う神代事を再現する代表的人格である。何故ならば彼等は、 大陸発展といふ肇国の大理想を、 過去の多くの歴史的天才によつて運ばれたバトンを、昭和の今日に受け継いだ選手である。彼等の戦いは何処までも日本人がそこに永久に発展していける所の基礎を建設することである。
気候風土との戦いも戦いに相違ない。 然し乍ら根本的な戦いというのは吾々自身の中に巣ぐっている、 日本的でない外国的精神の不純な憑き物を振り落さんがための潔めの戦いであり、 古代的情操と、古代武土道の英雄的情操の獲得である。
しかしながらここに祖先墳墓の地を去るということは愛鄕心を失わしめるものであり、国民精神上よろしくないという思想上の反対論があるが、彼等の胸底を一貫して流れる生活の理想は彼の「海行かば水づく屍、 山行かば草むす屍、 大君の辺にこそ死なめかへり見はせじ」 と歌った吾等祖先の魂の雄叫の中にある。 世界の荒地を開拓し、 我が骨を埋むる所、 即ちこれ鄕土である。義勇軍は氏神樣の御分霊をいただき御先祖様もろともに、満洲に新しい郷土を建設せんとする運動である。
理想を語らなければ、青少年メンバーを集めることが厳しいことはわかるのだが、かなり危険な任務となることについてはこの本にはほとんど何も書かれていない。たとえば、満洲の匪賊の出没は当時多くの日本人が心配していたと思うのだが、この本のp.140を読むと、義勇軍のメンバーに内地帰還させて体験談を語らせている場面があるが、司会から内地帰還の目的を問われた際に島根出身の一人が、「内地の人は満州といえば匪賊が出るとか寒いとかいう考えをもっていますから、この点何も心配はないことを証明したら良いと存じます」と答えている。この本で「匪賊」という言葉が登場する場面はこのページだけなのだが、内地帰還したメンバーが全員綺麗ごとばかりを述べているのが気にかかる。本土に帰って少しでも多くのメンバーを集める為に、多くの真実が伏せられているのだと思う。
匪賊や過激な排日運動などについては、おそらく満洲に渡ってから現地の訓練所などで詳しく教わったのだろうが、こういう形で集められた青少年は累計で約八万六千人とされ、その多くが厳しい環境や、敗戦後の混乱、シベリア抑留などで二万人以上が犠牲になったといわれている。
次回はGHQによって焚書処分された、満蒙開拓青少年義勇軍のメンバーが書いた文集を紹介することと致したい。
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