満蒙開拓青少年義勇軍
満蒙開拓青少年義勇軍について、戦後の日本人にはほとんど知る機会がなかったと思うのだが、昭和十二年十二月に作成された「満洲青年移民実施要項」に基づいて募集が開始され、若き青少年が満洲国に開拓民として送られていった。
その募集要項によると、小学校を卒業し、数え年十六歳から十九歳までの身体強健なる男子で、父母の承諾を得たものであれば誰でもよいとされたという。成人移民を補充するものでありながら、その名称が青少年移民でなく、青少年義勇軍であるのは、日中戦争遂行上必要不可欠な満洲支配の安定的維持に青少年が挺身することとして、当時軍国主義的意識の昂揚した青少年に訴えるためであったようだ。自由応募が原則であったが、実態は当局から各都道府県への割り当て数が決められ、さらに道府県から各学校への割り当て数が決められていて、高等小学校の成績上位・中位層が中心であったようだ。義勇軍のメンバーとして満洲に送られた青少年は累計で約八万六千人とされ、その多くが厳しい環境や、敗戦後の混乱、シベリア抑留などで二万人以上が犠牲になったと言われているが、詳しいことは分からない。
満蒙事情 「ユダヤ人と満洲国」

義勇軍に応募を検討する青少年のために書かれた『満蒙開拓青少年義勇軍概要』という本がGHQによって焚書処分されている。著者の清水久直については、当時「満蒙開拓青少年義勇軍市原訓練所学事課長」という肩書であったことぐらいしかわからない。
当時の日本人が世界の情勢をどのように捉え、満洲国がどのような状況にあると考えていたかを知る参考になるかと思って読み始めると、第一章「満蒙事情」の第一項がいきなり「ユダヤ人と満洲国」という表題で書かれている。このような内容の書籍を当時のわが国の青少年が読んでいたことに驚かざるを得ない。
全世界に千五百万から二千五百万の人口を有するといわれるユダヤ人は、その少人口に拘らず世界資本の六割乃至八割を独占するといわれている。彼等は独立国を成さず、その宗教を固く守って絶対に他の人種と結婚せず、他民族と混合して生活した結果、 時としては非常に虐待されたことがある。
そのユダヤ人を虐待した國民は、ドイツとロシアである。これを優待したのは英米である。 従って英米では非常に役に立っているが、その代り、独露では恐しい復讐をやっている。
まずユダヤ人の子であるマルクスという男が、ドイツで恐しい共産主義の哲学を組織した。彼はプロシヤの独裁政府に反抗するために、その共産主義の哲学を考え出したのである。ヒットラーはこれをユダヤ人の復讐哲学と呼んでいる。ロシアでもまたレーニンやトロッキーの如きユダヤ人がマルクス哲学を利用して革命を起しブルジョア三百万を虐殺し、農民を恒久の飢饉に陷れて、これを苦しめている。ユダヤ人は日露戦争当時に、 日本に対し十一億の軍費を貸してくれて、 そのためにロシアに勝つことが出来た。これもロシアに對する彼等の復讐であった。ところがこのたび日本と支那と戦うに当って彼等は常に支那を援けて日本を財政的に苦しめんとしている。 これは何故であらうか。
無論それは日本がドイツの友邦であるからでもあらうが、それよりも最近の原因は、彼等が満洲を取って、ユダヤ帝国を建てんという野心を持って居たのを、日本が満洲事変によってその先を越して、満洲国を独立させた腹いせのためだともいわれている。
満洲国の独立を妨げたリットンはユダヤ人であった。
今日の支那事変は、日本人が支那人と戦っているのではなく、日本人とユダヤ人が戦っているのだといわれている。
今日支那を助けている上海の大財閥サッスーンもユダヤ人であり、 今日の法幣を考へ出した英国財務願問リース・ロスもユダヤ人である。今後、彼等は如何なる形に於て吾等に復讐するであらうか。
清水久直『満蒙開拓青少年義勇軍概要』明治図書 昭和16年刊 p.1~3
この本全体で「ユダヤ人」について書かれているのは、この冒頭の部分だけなのだが、当時の世界の混乱の背後にユダヤ人が動いていて、支那事変の背後で動いている英米の裏にはユダヤ勢力が動いているという観方は、当時多くの日本人に共有されていたのである。
戦後のわが国の教科書では、当時用いられていた「支那事変」という名称ではなく「日中戦争」という呼称で統一され、戦勝国にとって都合の良いように歴史が書き換えられたために、かつてわが国が中国に侵略戦争をしかけたかのように多くの日本人が洗脳されていることは残念なことである。
文中に登場する「リットン」は、満洲事変の原因と背景を調査するため、国際連盟が派遣した調査団の団長を務めたリットン卿を指しているが、この人物がユダヤ人であったことだけでなく、国際連盟そのものがユダヤ勢力によって動かされていたことは、戦後のわが国の言語空間ではほとんどタブーにされている。
例えば昭和八年二月二十四日の『神戸又新日報』には、国際連盟がいかなる組織であったかについて次のように解説されている。

今回の国際連盟については、事務総長のドラモンド氏を始め次長アプール、反日先鋒チェッコ代表ベネシュ、スペイン代表マダリアガ、情報部長コムメン支那代表ウェリントン、顧氏等がこのフリー・メーソンのメンバーで、連盟外では支那衛生顧問のライヒマン、リットン調査団書記長でリットン報告書を執筆したハース氏等がおり、フリー・メーソンと連盟の関係についてパリのフリー・メーソンの機関誌に、「指導精神から考えて連盟はユダヤの運動に深い関係を持っており、吾々ユダヤ人は連盟の最初の具体的提案者で、連盟はユダヤ民族に世界的放浪生活をさせている根本原因を政治的に解決するものである」と書かれてある。
しかも連盟内に、前記のごとくフリー・メーソンのメンバーが軍要な地位を占め連盟と極めて深い関係にあるとすれば、今回の日本が連盟の無視に対し脱退の余儀なきに至った裏面に、フリー・メーソンの信奉するプロトコールのうちの「弱小国不平国を援助し」世界攪乱の過程に導びかんとするものであると見るのは、単にユダヤ禍恐慌病者のみではなかろう。会員は全世界にその数百万を算し、それらが着々世界の支配的地位にある有力なるメンバーからの指令によって、世界征服の陰謀が続けられていると言われている。
「神戸大学新聞記事文庫」人種問題2-76
「フリー・メーソン」は今日では「十六世紀後半〜十七世紀初頭に起源を持つ、世界最古かつ最大の友愛団体で会員同士の親睦を深めることを目的とする」などと解説されているが、少なくとも戦前の世界や日本ではそのような解説に納得する人々は少なかったのではないだろうか。
蒙古人と満州人
満洲国の建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げたことはよく知られているが、満洲に移り住んだ日本人が他の四民族と共に暮らすためには。蒙古人、満州人、漢人、朝鮮人が満洲に移り住んだ歴史的経緯や、それぞれ民族の特徴やものの考え方を知ることが大切である。
著者は満洲の歴史とともにそれらの民族の攻防を述べているのだが、遊牧民族である蒙古人と農耕民族である漢人との戦いの一部を紹介させていただく。
満洲は既に三千年の昔から原住民族によつて肇国され、爾來幾度か原住民族間に興亡隆替が繰り返された。
原住民族のうち「清」によって代表された満洲族と「元」によつて代表された蒙古族とが二大民族である。北方アジアの草原で遊牧してきた蒙古民族は、他の遊牧民族に於ける場合と同じく、より良好な牧野を求めて、 常に異動していたのであるが、 常に他の遊牧民と戦って勝ち得るだけの強大なる武力を必要とした。従って遊牧民の間に於ては、自由に移動し得ることが、 強者の証左であった。 他種族の襲撃と野獣の被害を防ぐためにも、常に強大なる武力が必要であった。かかる不断の武力の必要は、必然的に同氏族の鞏固なる結束をもたらし、そこに武力に長じた遊牧集団を生じた。個々別々に分散した遊牧は、野獣と他民族の侵害のために到底存立し得なかったのである。 そしてこの遊牧集団は戦闘に長ずると共に極めて進取的になり、勢に乗ずれば雪達磨の如くに他の遊牧集団を併合して益々強大となった。
支那本部の農耕民族たる漢民族は、 北方アジアに生じた戦闘的遊牧集団が雪達磨の如く併合し発展した時に、常に脅威せられ、蹂躙せられた。支那統一の歴史が殆んど北方アジアの遊牧民族によって描かれている如く、戦闘にかけては、農耕民族は到底遊牧民族の敵ではなかった。蒙古が欧亜の天地を蹂躪した絶世の勇武と進取の気性とは、 この戦闘的な遊牧民族としての伝統から生れたものである。…中略…
…蒙古民族は支那本部を中心として空前絶後の大帝国を建設し、北方アジア民族のために、史上不滅の光彩を放ったのであるが、さて次の事は注意すべきことである。
遊牧集団は、 転々として水草を追って移動するものであるから、 その移動の目標は、 青々当時の繁った牧草と水とであって必ずしも土地の所有を企てたものではなかった。 故に遊牧集団は一定の地域としての土地概念に基いて成立したものでなく、 自由なる移動と自己集団の保護の必要から生じたところの、 王公と部下との身分的関係に基づく集団であったのである。
そして無比の勇武と謀略とによつて征戦又征戦と、征戦をのみ維れ事とした蒙古民族は独自の文化と産業の発展とを有しなかったがために、 その帝国は所詮、 殺戮と剽掠の集積たるに過ぎなかった。
武に偏して文化の劣った蒙古民族が当時既に、 比較的進んだ文化を有した漢民族を統治するに至ったがために、朝に在った蒙古人は忽ちにして漢民族の文化に同化して軟弱となり、同時に漢民族の間には猛烈な民族運動が勃興した。 小数の蒙古民族による支那本部を中心とする全領域の統治は指導者階級の軟化と共に財政又紊乱して、 さしもの元朝も日ならずして衰亡の兆を現わすに至った。折柄、 支那南方に漢民族の明朝が起るや、 蒙古民族は忽ち支那本部を追われて、 長城以北の故地に還ったがしかし、 蒙古は後年に至って清朝に帰順するまで巌として長城以北に漢民族の侵入を許さず、 頻に関外に出でて明朝を脅したので、 蒙古の存在は依然として漢民族の脅威たるを失わなかったのである。 忽必烈卽位後僅かに一〇七年にして元朝の正統は亡び、 元裔三代にして、遂に元朝崩壊の悲運に会し、茲に蒙古民族の輝かしき朝廷は失われたのである。
『満蒙開拓青少年義勇軍概要』 p.3
元を滅ぼして建国された漢民族国家の明は、十七世紀に満州民族に滅ぼされている。新王朝は蒙古民族の統治には成功したが、満州民族も次第に漢人文化に毒されて管理が腐敗していったという。

元朝に替って満洲の地に興った満洲族の清朝は、西紀一六一九年頃支那本部の制覇を目指して攻明戦を開始した。 当時帰順していた蒙古族は清に協力して攻明戦に参加して長城を破り、北京を包囲して漢人の膽を奪った。 清朝の攻明戦には蒙古の武力が多大の貢献をしていることは没し得ざる事実である。
斯くて清朝は康熙帝(聖祖)の一六六二年に全く明を攻滅して支那本部の統一を完成したのである。康熙帝は、親しく蒙古の地に行幸し、衣食に窮せる者に物品を給し、蒙古諸王公と会し、之を饗応歓待したので、内外蒙古は大いに康熙帝を徳として之を内外蒙古の皇帝に奉じ、清朝皇帝は代々蒙古皇帝の大統を承継するものとして、 玆に內外蒙古を挙げて清朝に帰順するに至った。
しかし清朝は、支那本部の統治上北方民族が常に渦根を為し来った歴史に鑑みて、蒙古に対する一切の政策は頗る巧妙周到を極め、さしもに勇猛果敢なる蒙古民族をして醉生夢死の状態に陷れ、清朝治下の二〇〇年間、遂に蒙古民族に策動の余地を与えしめなかったのみならず、清朝崩壊に至る迄蒙古人の清朝に対する崇敬を維持し得たのである。
僅か三四百万の満洲族が当時既に二億はあったであろう漢民族を押えながら、かくも蒙古人の崇敬を維持し得たということは一体如何なることに起因するであろうか。
清朝は蒙古を漢民族に対立せしめ漢民族の叛逆を控制せしめる策をとり、 蒙古人の漢化を制限し、進んだ文化を吸收する機会を与えず固有の遊牧生活に安住せしめて、民族的活動に要する経済力の発展を阻止した。そして又蒙古に旗制を設け、王公の数を増し、小王公に分封し、互に控制せしめて蒙古民族の全蒙的共同動作を不可能ならしめた。
他方又、清朝皇族と蒙古王公との間に結婚政策を用ひ、清朝と蒙古を血族的に不可分の関係に置き、王公を北京に招致し、支那式遊惰の風に馳致し、金銭を浪費せしめ、その雄志を奪ひ、更に喇嘛教を奨励し、蒙古人をして迷信に耽らしめ、その伝統的な勇武進取の精神を麻痺せしめたのである。 この清朝の対蒙政策は実に蒙古民族の重大異変であったが、 さて、 元朝が漢化に禍せられて衰亡した如く清朝もまた漢人文化に毒されて、官吏は多く腐敗墮落し、清朝政治はここに漢人の手に移ることとなった。
『満蒙開拓青少年義勇軍概要』 p.7-9
清朝も明朝と同様に漢化して腐敗し弱体化していったのだが、同時に、当時熾烈な植民地争奪戦を戦っていた欧米列強の餌食となり、国内の治安は乱れ、内乱が各地に起こり、辛亥革命により清朝は崩壊した。そして支那の混乱期に大量の漢人が、支那本土から満州に移り住んでいる。
「東洋のバルカン」と呼ばれた清朝崩壊後の満洲
清朝崩壊後は蒙古と支那の関係は一変したという。清朝末期は漢人本位の政策が行われ、蒙古人はずっと酷い目に遭っていた。蒙古人の怒りが、清朝崩壊とともについに爆発したのである。
清朝末期に至り支那の政治に不満を有していた蒙古人は、清朝の崩壊と共に敢然民族主義の烽火を挙げ、「蒙古は清朝に帰順してその外藩となったが、かつて支那の版図に入ったものではない。いわんや清朝崩壊後に於いて、多年の仇敵たる漢人の支配に属する理由なし」として、内外蒙古は直に独立国家創建を叫んで起ったのである。爾來、十数年間の蒙、支の関係は、漢、民族抗争の歴史であるが、清朝崩壊後二十余年にして、蒙古は露、満、支の三ヶ国の支配に分割せられ、三百万の蒙古民族は、混沌たる政治的、経済的、社会的諸状勢の下に彷徨しつつ今日に至ったのである。
清朝末期の頃、一切の政策が漢人本位に行われ、熱河蒙古の秩序は漢人のために全く蹂躪され、漢人暴民による蒙古人部落の破壊、蒙古府の焼き討ち、寺廟の荒廃、慘忍なる虐殺等の非道が演じられた。日清戦争後の支那が日本に対抗する政策としてロシアと結んだとき、この形勢を看取した蒙古は、日本に頼って支那の圧迫から脱せんとて、そこに熾烈なる親日熱が勃興した。日露戦争が起ると共に、東蒙人が直ちに起って、日本のためロシアと戦ったのはそのためであった。この蒙、支の関係を知らば蓋し、満洲国家の建設を最も熱望したのは反支運動の生々しき歴史と軍閥政治の悲惨なる現実とに喘いできた蒙古の民衆であったであろう。
清朝時代、王公が北京に参勤して浪費遊惰な生活に耽った時でも、彼等は営々として王公のために物資を貢いで来たのである。
彼等の「身上を尊敬し、之に服従する」観念に厚いことはまことに嘆賞すべきものがある。彼等が愛誦する歌詞等にも成吉思汗を始め、彼等の祖先の英雄を追慕し、讃美するものが多く祖先崇拝の念また熾烈である。
彼等が家畜を愛すること、乗馬に巧みなこと等、蒙古人の生活や伝統を基調とする原始的な民情及びそれを語る幾多の例話は、蒙古旅行者によつて限りなく伝えられるのであるが、愚直蒙昧なる蒙古人の民情は強く日本人の胸底に相触れるものがあり、漢人に接する場合と相反する親愛の情を覚えるのである。彼等の歌謠は日本の追分節に似て哀調切々として胸を打つ、原始的であるが情操はまた豊富だ。彼等は一切の風習、伝統に反する進歩や改善には総て反対する傾向があり、道路や鉄道のひけるを喜ばず、進んだ文化の浸入を阻止し、露天温泉に屋根を設けることにすら反対する。そして総てのの石に一種の霊的感情を有し、濫りに石を握り動かすのにも反対する。…
『満蒙開拓青少年義勇軍概要』 p.17-19
「五族共和」というものの、民族によって文化も考え方もことなり、各民族が平等に平和に暮らせる国を作ることは決して容易ではない。この文章を読めば、蒙古人は日本人と似ているところがあることが分かるが、漢人の考え方は日本人とは大いに異なる。満州の人口は、遊牧民族の満州人や蒙古人は決して多くなく、清朝末期以降に漢人が大量に移住したことにより漢人が他の民族を圧倒していたのだが、満洲で日本人が漢人とどのようにに接するべきであるかについて著者が記している内容は、次回に紹介させていただくことと致したい。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓


【ブログ内検索】
大手の検索サイトでは、このブログの記事の多くは検索順位が上がらないようにされているようです。過去記事を探す場合は、この検索ボックスにキーワードを入れて検索ください。
前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。
全国どこの書店でもお取り寄せが可能ですし、ネットでも購入ができます(\1,650)。
電子書籍はKindle、楽天Koboより購入が可能です(\1,155)。
またKindle Unlimited会員の方は、読み放題(無料)で読むことができます。
内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。


コメント