「五・一五事変の史的考察」 白柳秀湖『日本外交の血路』を読む2

白柳秀湖

武士・兵士の生活の途を奪うということ

五・一五事件を報じる東京朝日新聞号外 Wikipediaより

 今回も引き続き『日本外交の血路』(GHQ焚書)の内容紹介だが、「五・一五事変の史的考察」との題で書かれた白柳の文章をほぼ全文紹介させていただくことにしたい。彼がこの本を著した昭和七年(1932年)の五月十五日に、有名な「五・一五事件」が起きたのだが、彼はこの事件を「五・一五事変」と書いている。「事件」と「事変」の違いは、「事変」の方がより規模が大きく、「狭義では、警察力では鎮め得ない騒乱を指す」などと解説されているのだが、青年将校が首相官邸を襲って犬養毅首相を暗殺した大事件であり、「事変」と呼ばれてもおかしくないとは思う。「国立国会図書館デジタルコレクション」で戦前戦中の本や論文を調べると、この事件について「五・一五事変」と書いていた事例それほど多くはなく、戦前戦中から「五・一五事件」と呼ぶのが一般的であったようだ。
 白柳は「五・一五事変の史的考察」の冒頭で、明治の初めに奇兵隊が解散したことから書き起こしている。

 明治の初め、長州で奇兵隊を解散した時、大楽源太郎らが不平の隊士を糾合して乱をおこしたことがある。兵隊も社会人である。彼らにも一般人と同じ生活問題はある。俄かに職業を奪われ、生活の途を塞がれ、その前途をまっくらにされてしまっては、黙っておられぬ。暴動は必至の勢いである。ただ注意すべきは彼らが暴動を起こすにあたっては、必ず他の理由を掲げて以てその旗幟とし、決してその生活問題を口にしなかったことである。
 例えば奇兵隊の場合にしても、彼らの標榜するところは全く堂々たるもので、あるいは廟堂の奸族を除くを言い、あるいは天下民生の疾苦の座視するに忍びざるを言い、その暴発の動機がおのれらの生活問題にあることなどはおくびにも現わさぬ

 西南戦争の原因は征韓論の破裂にあったと多くの人は今でも信じている。それも事実の一面ではあろうが、今日から見ると征韓論は、彼らが標榜した一つの旗幟で、根本の原因ではない。西南戦争は明治四年の廃藩置県に際し、地方の叛乱に備える為に東京に集結された薩長土三藩の封建的正規兵、即ち御親兵の解散がその原因であった
 征韓論が西南戦争の原因であったという事実は、歳月が経過すれば経過するほど影が薄くなり御親兵の解散という事実がそれに代わって日一日とはっきりとなって来つつあるようだ。

白柳秀湖 著『日本外交の血路』千倉書房 昭和7年刊 p.21~22

 武士や兵士は他の職業と同様に急に職を失うことがあり得るのだが、この職業が他の職業と異なるところは、その気になれば強力な武器を用いること不可能でない点にある。彼らの処遇を誤れば内乱が勃発してもおかしくないわけだが、以前このブログで書いた通り、奇兵隊の時は兵制改革時に一万人が常備軍を外された際に、明治政府及び長州藩がその後の対応を誤ったため明治三年に奇兵隊が蜂起した。

 西南戦争などの不平士族の反乱については通説に色々な理由が書かれているのだが、御親兵の解散で武士の仕事がなくなり大量の武士が生活できなくなったことが最大の原因であるというのはその通りだと思う。

ワシントン会議前のわが国の経済界と外交方針

 次に白柳は米国及び支那との外交問題に話題を移している。

 日本はこれまでアメリカ合衆国西部の移民問題に関しては極端な平和主義をとり、満州問題に対してのみ、必要以上にその神経を尖らせてきた。これは言うまでもなく資本主義外交の最も露骨な現われであった。
 合衆国の西部に於ける移民問題はプロレタリアの問題である。茶の売れ行きにも、生糸の売れ行きにも関係があるわけではない。資本家は茶と生糸のお得意の御機嫌を損なわざらんがために、西部に於ける日本移民がなし崩しに受けているリンチ以上のリンチを冷然として傍観して来た。そうして満州を日本の生命線として死守する日本の外交方針に対する了解を求めて来た

 満州には苦力(クーリー)の名によって呼ばれる世界に比類のない勤勉なしかも賃金の安い労働者がいる。そうして支那四億の民衆は、その富の程度の高いと低いとに論なく、日本の鉱業にとって絶好のお得意である。日本の工業資本主義は隣国にこの世界一の安価な労働者と絶好のお得意とを擁して急速に発展した

 米国に対しては優柔、支那に対しては剛強、これがワシントン会議以前に於ける日本の外交方針であった。軍部の首脳はワシントン会議まで、この外交方針に対して何の異存も何の不平も持たなかった。

同上書 p.22~23

 いつの時代も経済界の政治に対する発言力は大きいものなのだが、当時はアメリカのカリフォルニア州で排日運動がおこっており、日本人移民は酷い目に合っていた。にもかかわらず当時のわが国の経済界は、移民問題には眼を塞いだままでひたすら満州を守ることを政府に要求し続けた。その結果「米国に対しては優柔、支那に対しては剛強」という日本の外交方針が継続されたのだが、この時期には軍部に外交方針における不満はなかったという。

武藤山治

 何人も知る如く、工業資本は土地に固定するものである。工業資本の放下されている土地の利権の覆ることは、工業資本家にとって、忍ぶべからざる打撃である。日本が満州に対して極度に神経過敏であったのは、満州に日本の工業資本が固定しているからである
 これに反して、米国は日本の商業主義が発展する舞台であった。商業資本は土地に固定するものではない。仮事務所と帳簿とフルスカップス*とペンさえあればそれでいいのだ。お世辞と愛嬌とは商業資本の唯一の武器である。
*フルスカップス:罫線の入った事務用便箋のようなもの

 満州に対する軍国主義は武藤山治氏の軍人優遇論が代表し、米国に対する平和主義は、渋沢栄一、団琢磨その他の親米論が代表した。日本の外交政策はそこに安定を見出していた

同上書 p.23~24
渋沢栄一

 経済界がなぜ満州に神経を尖らしていたかというと、彼らは安い労働力を利用できる満州に巨額の投資をし多くの工場を建設して来たのだが、当時の満州は軍閥匪賊が支配跋扈する無法地帯であり、このような連中から土地の利権を守り、かつ治安を維持しなければならなかった。一方アメリカでは事務所を置いて米国企業に日本製品を販売する仕事が中心であり、工業投資は少なかった。「米国に対しては優柔、支那に対しては剛強」という外交方針は、当時の経済界の要望に適うものであったのである。

ワシントン会議以降のわが国の外交当局と言論界・思想界の変化

 しかしながら西海岸に於ける排日運動が全米に拡大していくと、「米国に対しては優柔」との方針を維持することが次第に困難になっていく。アメリカの対日方針が大きく変わったのは大正十年(1921年)のワシントン会議以降のことだという。

 しかるにワシントン会議以来米国の日本に対する態度は一変した。移民問題では、既に日本を譲歩させるところまで譲歩させた。しからばもう何時までも無益に日本国民の感情を尖らせる必要はない。この上は西部の移民問題で、幾分日本の面目を立て、日本人を喜ばせても、満州及び支那の利権に割り込むことが必要であるという。これが米国の最近の外交方針となって来た

 ワシントン会議といい、不戦条約といい、これは要するに米国が満州、支那の利権に割り込もうとする地ならしであった。然るに日本の外交当局と新聞記者、思想家の大部分とはその機微を知らなかった。ワシントン会議以来、不戦条約以来、彼らはお調子に乗って米国の平和主義を謳歌し、わが国の軍部を悪しざまに言いののしることを以て能事とした。彼らはおりからわが国の思想界を風靡しつつあった共産主義インターナショナルの呼び声と…、米国の資本主義インタ―ナショナルの呼び声に調子を合わせ、必要以上に軍部と軍部思想とを排撃した。

 かような事態のもとに、やがて来るべきものは何であるか。我々はその当時からひそかにこれを憂えた。果然!我々の憂いは事実となって現れた。

 奇兵隊解散の後に大楽源太郎の乱があり、御親兵解散の後に西南戦争があった。軍縮会議、不戦条約の後に何が来るべきか。これまで日本の経世家の中にこれを憂うるものがなかったことは何事であるか。軍人も社会の一生活層である。五・一五事変における軍人の行為に同情することのできぬはもちろんであるが、社会の生活層としての彼らの心境は同情に値する。

同上書 p.24~25

 不戦条約は昭和三年(1928年)に開催されたパリ会議で締結された他国間条約で、ケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれている。国際紛争を解決する手段として、締約国相互で戦争の放棄を行い、紛争は平和的手段により解決することが規定されていて今も有効な条約とされているのだが、自衛戦争を認めていることから、どこの国でも「自衛のため」と宣言すればあらゆる戦争が公認されることとなるため、何の戦争抑止効果も生じなかった。ひょっとすると英米は日本人の国民性を考えていて、わが国が軍縮に一生懸命取り組むことを想定し、親英米派の日本人に工作をかけていたのかもしれない。
 白柳は軍縮条約や不戦条約が締結されて以降、わが国の外交当局や新聞記者、思想界が、経済界の意向を受けて軍部を悪しざまに罵るようになっていったことを非常に危惧していた。そして案の定、白柳が惧れていたことが実際に起こってしまったのである。
 明治時代はじめに仕事を奪われた奇兵隊が騒動を起こしたように、また生活ができなくなった士族たちが西南戦争を起こしたように、五・一五事件は起こるべくして起こったというニュアンスで書かれているのだが、戦後に生まれ育った我々には、当時の日本軍が国民からどのような目で見られていたかがよくわからない。
 当時の外交当局や新聞記者、思想界が軍を悪しざまに罵ったというのだが、その論調はいかなるものであったのか。この点については、この本の中で別の章に詳しく書かれているので、次回の記事で紹介することと致したい。

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