旧閑谷学校から後楽園・岡山城へ 岡山県の歴史散策1

岡山

旧閑谷(しずたに)学校

池田光政(林原美術館所蔵) Wikipediaより

 寛永九年(1632年)に岡山藩初代藩主となった池田光政は、水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之とともに江戸時代初期の三名君と称されている。この時代各地の大名は、武力による統治から文教による統治へと転換することが求められていたのだが、勉学家の光政は各地から著名な学者を集めて自らも勉学に励み、儒学における仁政の実現を目指し、岡山藩の基礎を固めた人物である。
 光政は児島湾の干拓などの新田開発や百間川の治水工事や産業振興を行ったことも重要だが、人材育成の為に全国に先駆けて藩士子弟のための藩校を建設し、また庶民の為に領内に百二十三ヶ所の手習所(後に閉鎖し閑谷学校に統合)を作り、寛文十年(1670年)には、津田永忠ながただに命じて和気郡木谷村(のちの閑谷)に庶民教育を目的とする閑谷学校を開設させるなど領民の教育に情熱を注いだことで良く知られている。
 藩が庶民の為に学校を開いたのは岡山藩が最初とされ、西洋でも当時は一般庶民の為に開かれた学校は存在しなかったようだ。

旧閑谷学校 校門 奥は聖廟

 閑谷学校の創立の頃は建物も質素な茅葺きであったそうだが、津田永忠が元禄十四年(1701年)に大改築し、その当時の姿をほぼ完全に残しているものとして特別史跡に指定され、建造物については講堂が国宝、他の建造物二十五件が国の重要文化財に指定されている。上の画像は閑谷学校の校門(国重文)である。

旧閑谷学校 講堂と小斎(左)

 寺院の本堂のような立派な建物は講堂(国宝)で、創建当初は茅葺き、のちに黒瓦葺きであったが、津田永忠が備前焼瓦に葺き替えたという。講堂の左の建物は小斎(国重文)で、藩主が臨学の際に利用する建物である。

旧閑谷学校 講堂内部

 昭和三十九年(1964年)まで講堂などの建物が県立和気高校閑谷校舎の一部として利用されていたそうだが、講堂の拭き漆の床は永年にわたり生徒たちにより磨かれて、窓から入る光を柔らかく反射させている。
 この講堂で、毎月一日、六日、十一日、十六日、二十一日、二十六日に儒教の最も基本的な教えを記した四書ししょ(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)の講義が行われたという。

旧閑谷学校 習芸斎(左)、小斎(右)

 講堂の左の建物は習芸斎しゅうげいさい(国重文)、毎月三日、八日、十三日、十八日、二十三日、二十八日に、儒教の基本的な教えを記した五経ごきょう(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)の講義が行われ、また毎月一日には生徒だけでなく近隣の農民も出席できる朱子学の講義が行われたという。学習のスケジュールは五日が一つの単位になっており、四日の学習の後一日休みがあり、学習内容は習字と素読が中心だったようだ。生徒数は三十人から六十人程度で、硯や筆などの文房具は学校から貸与され、授業料なども不要であったという。

 画像は教師と生徒が湯茶を飲んで休憩した飲室いんしつ(国重文)。中央に炉が設けられており、炭火以外の使用は禁じられていたという。奥の部屋は五経の講義が行われていた習芸斎(国重文)

 校地の周囲約七百六十五メートルに幅一.九メートル、高さ二.一メートルのかまぼこ形の石塀(国重文)が築かれている。花崗岩の切石を隙間なく巧妙に組み合わせているのだが、地中にも約二メートルの基礎が埋め込まれているという。三百年以上経過したにもかかわらず、今も修理の必要がないというから当時の石工の技術力は凄いものである。

旧閑谷学校 聖廟

 閑谷学校の最も重要な施設は儒学の祖である孔子の徳を称える聖廟(十一棟が国重文)。奥の大成殿に孔子像が安置されていて、毎年十月第四土曜日には孔子の徳を称える釈菜せきさいの儀式(日本遺産構成文化財)が今も行われているそうだ。

旧閑谷学校 閑谷神社

 聖廟の東側に閑谷学校の創始者である池田光政を祀っている閑谷神社(八棟が国重文)がある。本殿には宝永元年(1704年)に完成したとされる衣冠束帯姿の光政の金堂像が安置されているという。

旧閑谷学校 石塀(左)と火除山石垣(右)に囲まれた通路

 生徒や教職員の日常生活や学習の場所として学房(生徒の寄宿舎)や習字所、校厨(台所)、食堂、教員や役人の宿舎、来訪者の宿舎などが講堂や聖廟などの西側に建てられていたのだが、これらの施設は火を使うので、万が一失火しても講堂や聖廟などの重要施設に延焼することがないよう、間に火除山が設けられており、さらに重要施設から宿舎に繋がる道は石垣と石塀で囲まれていて距離もある。

旧閑谷学校 資料館

 実際に弘化四年(1847年)に火災が発生し学房の建物の多くが焼失してしまったが、重要施設への延焼は防がれた。学房の建物はその後に建て替えられたのだが、明治維新後の明治三年(1870年)に行われた藩政改革により閑谷学校は閉鎖され、学房周辺の建物が撤去されてしまったという。その当時講堂などの主要施設も撤去の動きがあったが、明治五年(1872年)頃から中川横太郎や谷川達海ら地元の有志が中心となって閑谷学校再興の運動が行われ、備前岡山藩第八代藩主であった池田慶政が資金を提供し、備中の漢学者山田方谷らを招いて明治六年(1873年)に「閑谷精舎」として一時再興されている。しかしながら、講義が漢学に偏っていたために生徒数が減少し、明治十年に休校となってしまう。
 その後明治十四年に元岡山県参事の西毅一は中川横太郎や岡本嶺らとともに『閑谷保こう会』を組織し、明治十七年(1884年)に『閑谷こう』を開学した。『閑谷黌』はその後私立の中学校となり、現在学房跡地に建てられている旧閑谷学校の資料館(登録有形文化財)は、明治三十八年に『私立中学閑谷黌』本館として建設された建物である。資料館には、池田光政や津田永忠、旧閑谷学校に関する貴重な資料が多数展示されている。

黄葉亭

 旧閑谷学校から東五百メートルの谷川沿いに黄葉亭(特別史跡)がある。相次ぐ学校訪問の客の応接の場として、文化十年(1813年)に建てられた茶室である。頼山陽や菅茶山など著名な文人が訪れた記録が残されている。

津田永忠宅跡碑

 旧閑谷学校から黄葉亭に向かう途中に津田永忠宅跡がある。随分大きな石碑が建っていたのでどんな人物なのかを調べると、彼は閑谷学校の建築だけでなく、後楽園の造園、新田開発、治水工事など藩の産業・生活の基盤づくりに尽力しており、彼が造成した施設群のうち、倉安川、吉井水門、百間川は、令和元年(2019年)に世界かんがい施設遺産に登録されている。彼が手掛けた工事のすべてが三百年以上過ぎた今も利用されているということは凄いことである。名君と言われた池田光政の事績の多くは、津田永忠が家臣にいなければなし得なかったのかもしれない。

後楽園

池田綱政像 曹源寺蔵  Wikipediaより

 茨城県水戸市の偕楽園、石川県金沢市の兼六園とともに日本三名園に数えられている岡山後楽園(国特別名勝)は岡山藩第二代藩主・池田綱政(光政の長男)が、閑谷学校建設に関わった津田永忠に命じて貞享四年(1687年)に着工し、元禄十三年(1700年)に完成した。

 現地の案内板を読んで初めて知ったのだが、この庭園の名称が「後楽園」となったのは明治のはじめのことで、それまでは岡山城の後ろに造られた園という意味で「御後園ごこうえん」と呼ばれていたという。「後楽園」という名称は「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という「先憂後楽」の精神で造園されたと考えて最後の藩主であった池田章政が明治四年(1871年)に庭園を日を限って一般公開する前に「後楽園」に改称したものである。後楽園が通年の一般公開になったのは、明治十七年(1884年)に池田家から岡山県に譲渡されてからのことだという。

後楽園

 後楽園は林泉回遊式庭園と分類されているが、砂質地盤で湿度不足のため、苔ではなく芝生を大量に用いている。また庭園内に弓場や馬場や井田、茶畑があるというのも珍しい。

 後楽園の南に岡山城があり、城の天守閣が後楽園の景色の一部になっている。

岡山始まりの地 岡山城

 後楽園から月見橋を渡って岡山城に向かう。この付近には旭川流域に岡山、石山、天神山という三つの山があり、その石山にあった城(石山城)を手に入れて本拠地にしたのが宇喜田直家で、その後直家は、拠点を指す呼称として比較的早い段階で「岡山」を用いるようになったという。元亀三年(1572年)十月二日付の小早川景隆宛て書状に「岡山」という文言があるのだそうだ。
 直家が死去した後、子の秀家が父の遺領をほぼ継承し、八年間にわたり岡山城の大改修を実施し、近世城郭としての体裁を整え、城下町を拡大整備した。

 慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いで宇喜多秀家は西軍の主力として戦ったが、敗れて八丈島に流され、その後小早川秀秋が入城するのだが二年後に急死し、嗣子がなかったため小早川家は断絶した。次いで播磨姫路城主池田輝政の次男池田忠継ただつぐに与えられたが慶長二十年(1615年)に死去。その後を忠継の弟の忠雄ただかつが継いだが寛永九年(1632年)に死去。忠雄の子・光仲は因幡鳥取に転封となり、入れ替わって因幡鳥取から池田光政が入封し、以後岡山城は幕末まで光政系池田氏の居城となる。

焼失前の岡山城天守 1934年 Wikipediaより

 明治二年(1869年)の版籍奉還により、岡山城は兵部省の管轄となるも、明治六年(1873年)の廃城令により、建物の多くが取り壊されたが天守・月見櫓・西の丸西手櫓・石山門だけが残されていて、それぞれが旧国宝に指定されていた。しかしながら昭和二十年(1945年)六月二十九日に米軍のB-29百四十機による岡山大空襲により天守閣と石山門は焼失してしまった。Wikipediaによると、二種類の焼夷弾が約八百九十トン投下され、市街地の七十三パーセントが焼け野原となり、逃げ場を失った千七百人以上の市民が犠牲になったという。

岡山城 月見櫓

 画像は岡山大空襲で奇しくも焼失を免れた月見櫓(国重文)。元和年間に池田忠雄が建てた北西の隅櫓である。

津田永忠遺跡碑

 旧閑谷学校を先に見学しなかったらおそらく写真を撮らなかったと思うのだが、後楽園の中間点にある沢の池の北側に津田永忠遺跡碑が建っていた。石碑の上部の篆書は池田茂政(備前岡山藩九代藩主)が書き、本文は池田章政(同十代藩主)が書き、明治・大正期の著名な書家である日下部鳴鶴くさかべ めいかくが記した字を石匠の藤田市太郎が彫ったとある。碑文は明治十九年(1886年)一月に漢文で記されたもので、碑の横の案内板にその読み下し分が書かれているが、有難いことにその全文を『Gochaごちゃサイト』で読むことが出来る。

津田永忠 遺績の碑

 津田永忠は岡山藩主、池田光政・綱政に仕え、飢饉など災害に備えて穀物貯蔵庫を設け、藩財政の立て直しをして藩士の窮乏を救い、閑谷学校を設立し、後楽園の造園や海を埋め立てて新田開発をするなど備前岡山藩に多大な功績を残しながら、当時において彼の功績を知る人は少なかったようだ。備前藩の侍医であった木畑道夫ら旧臣から津田永忠の碑を建てようとの声が上がり、その情熱に元藩主が動かされてこの碑が建てられたことが記されている。
 そして、碑文の最後に彼の事績が格調高い文章で簡潔にまとめられている。

新田葱葱そうそう、年として豊かならざるはなく、倉安の水、潅漑四通かんがいしつうす。
社倉の遺法、以て民の窮を救ひ、造船牧馬ぼくば軍須立ぐんしゅうたちどころに供す。
いわんや学校をはじめ、礼譲の風を興すをや。
凡百の事業、我が先公をたすけ、施して今日に至る。 
余沢何ぞむなしからん。此のつかさどる者、永くその功を思へ。

「倉安の水」というのは吉井川と旭川を繋ぐ水運と干拓新田への灌漑を目的に開鑿された人工水路であり、吉井川起点に残る吉井水門はこの形状のものとしては国内最古、あるいは世界最古のものと高く評価されているようだ。永忠が干拓した倉田三新田は約二百九十一ヘクタールに及び、その新田に必要な用水確保の為に吉井川の吉井水門から取水する用水路と、吉井川から児島湾を経由せずに城下へ直行する運河を兼ねた倉安川を延宝七年(1679年)に開削したのだが、同時に干拓地に海水が遡上することを避けるための工夫もされている
 岡山県では津田永忠の事績を世界遺産登録することを目指して学識経験者らが動いているという。
 津田永忠の「倉保の水」について詳しく知りたい方は次のサイトが参考になる。

 津田永忠遺跡碑の碑文には津田永忠が行ったインフラ工事のお陰で、後世に生きる岡山の人々が多大な恩恵を受けて来たことが書かれているのだが、私も恥ずかしながらこの人物については旅行に行くまではほとんど何も知らなかった。こういう人物がいたことは多くの人に知ってほしいし、教科書などにも載せてほしいものだと思う。
 最近のわが国で建築されたもので、三百年以上経ってからも国民から感謝されるようなものがどれだけあるだろうか。昔の日本人はより良いものを後世に残したいと願い、そのための努力を惜しまなかった人が少なからずいたのだが、今日では政治家や企業家や官僚や研究者の多くが、そのような努力をすることを忘れてしまっているのではないだろうか。自己の為ではなく、世のため人の為に予算を充てることを続けていかなければ、国も企業も衰退していくばかりではないか。

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