児玉源太郎

義和団の乱から日露戦争

日露戦争最大の陸戦となった奉天会戦で兵力の劣る日本軍が勝利できたのはなぜか

日露陸戦最後の大会戦となった奉天会戦はも兵力では圧倒的にロシア軍が優勢で、しかも日本兵は旅順攻囲戦で消耗していた。日本軍は兵力が少ないにもかかわらずロシア軍を包囲する戦略をとったが、これはリスクが高かったにもかかわらず成功した。ロシア側の記録を読むとロシア兵は乃木軍を恐れていたことがわかる。
義和団の乱から日露戦争

旅順要塞を短期間で落城させた乃木希典を世界が賞賛した~~旅順攻囲戦2

明治37年11月27日からの二〇三高地をめぐる戦いは壮絶を極めた。日本軍が勝利し、二〇三高地から旅順港の敵艦に砲撃を仕掛けて極東艦隊を全滅させると、乃木は旅順要塞に大量の爆薬を仕掛けて突入し次々と堡塁を奪取していき、翌年1月2日についに旅順要塞は落城した。世界は短期間で日本軍が勝利したことを賞賛した。
義和団の乱から日露戦争

わずかな兵力・火力で旅順要塞攻略を求められた乃木希典~~旅順攻囲戦1

明治37年5月に乃木希典が第三軍司令官に任ぜられ、旅順の奪取を命ぜられた。しかし、旅順の要塞は想像以上に堅固に造られており、弾薬も兵員も絶対的に不足していた。参謀本部は「歩兵万能主義」で、砲兵の力に依存しないで、「如何なる要塞も陣地も強襲にて攻略し得るもの」と考えであった。
義和団の乱から日露戦争

日露開戦を決定した直後に戦争を終わらせる準備を怠らなかった伊藤博文

明治37年2月4日の御前会議で対露断交と開戦を決定した夕刻に、伊藤博文は金子堅太郎を呼び、すぐに渡米してほしいと告げた。伊藤はこれから戦争が何年続くかわからないが、もし勝敗が決しなければ両国の間に立って調停する国が必要となる。頼むところはアメリカしかない。君は大統領のルーズベルトと懇意の仲であり、直ちにそのことを依頼してほしいと告げた。
征韓論から士族の反乱

廃刀令が出た半年後に起きた熊本神風連の乱

明治維新後士族を取り巻く環境が激変し収入も激減していたのだが、明治九年の廃刀令で不平士族の不満が爆発した。熊本では神風連の党員約170名が新政府施政の過ちを正そうと起ちあがり、熊本鎮台司令官宅、熊本県令宅、熊本鎮台などを襲撃した。翌日鎮圧されたが、この事件に呼応して、秋月の乱、萩の乱が起きている。