備中松山城
岡山県西部を流れる高梁川は吉井川や旭川と並ぶ岡山三大河川の一つで、その中流にある現在の高梁市は江戸時代から昭和初期までは高瀬舟が行き交い、物資の集散地として賑わっていたのだが、この川の名前は『日本書紀』では「川島川」と書かれており、近世では「備中松山」にちなんで「松山川」と呼ばれていた。この川の名が「高梁川」と名前が変わるのは明治初期のことで、同様に「備中松山」の地名が「高梁」と変わったのもその頃のことだという。この点については後述する。
そしてJR備中高梁駅を中心とする市街地の北に地元で「おしろやま」と呼ばれている臥牛山があり、この山には、北から「大松山」、「天神の丸」、「小松山」、「前山」の四つの峰がある。そして小松山の山頂を中心に備中松山城(国重文)が建っている。天守が現存する城は全国で十二あるのだが、山城ではこの城だけしか残されていない。

備中松山城の歴史は古く、承久の乱(1221年)の後に有漢郷(現 高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭重信が臥牛山の大松山に砦を築いたことで始まると伝えられている。
その後、南峰の小松山にも曲輪が拡がっていったが、戦国時代に城主が上野氏、庄氏、三村氏と変わるなかで、さらに出丸や出城が設けられて臥牛山一円が要塞化していった。
関ヶ原の戦いの後は備中国奉行の小堀正次・政一父子が城番を務めたが、小堀政一は庭造りの名手として有名な小堀遠州のことである。遠州が備中国にいた時に造園したと言われる頼久寺庭園が、高梁市の中心部に残されている。この庭園については後述する。
その後元和三年(1617年)に備中松山藩が立藩され、池田氏が入城。以降水谷氏、安藤氏、石川氏と藩主が交代し、延享元年に(1744年)に板倉氏が入り、明治維新まで続いたという。

慶応四年(1868年)に戊辰戦争が始まったが、藩主の板倉勝静は江戸幕府で老中首座を務めていたために朝敵と見做され、備中松山藩は危機的な状況に陥った。後に閑谷学校を再興した山田方谷らは「無謀な戦いを避け、藩の存続を図るしかない」と考え、藩は無血開城を決断し新政府軍に降伏。この決断により城も城下町も攻撃されることなく岡山藩の支配下に置かれている。その後明治二年(1869年)に明治新政府から改名を要求され、「備中松山藩」が「高梁藩」と改称され、それに伴い中心部を流れる「松山川」も「高梁川」に改められたという。
さらに明治六年(1873年)に廃城令が公布され、備中松山城は政府より取り壊しを命じられている。ではなぜ、備中松山城は残されたのか。『日本の古地図 5』には次のように解説されているのだが、この経緯がなかなか面白い。
明治六年一月の廃城令で松山城は、当時全国にあった一八五城中、他の一二七城と共に取壊しを命じられた。金七円也で城下の下町に住む某が落札し、御根小屋*を始め惣門や番所・木戸など、 城下の軍事施設と見られたものは、全部解体し撤去された。当然の事として山城がその第一に挙げられたはずであったが、足元の悪い急坂が続き、しかも四百二十メートルの山頂のことである。かたがた解体後の用途の問題も絡み、 採算のとれる見込みがないので、 そのまま放置された。撤去期限があったか、契約不履行で政府の督促を受けたか、何の記録も無く、公簿からこの時限りで消えて行った。 朽ちるに任せていた六十年余り、 たまたま昭和十五年に皇紀二千六百年の祝典行事が盛大に行われた。日中戦争の最中で、 一億総けっ起の相言葉で、 国を挙げて軍国主義・国粋主義運動に狂奔していた時代である。
*御根小屋:山麓にあった藩主の居宅。現在は県立高梁高校の敷地。こうした時勢を捉えた永井恒三郎町長は、昭和三年以来三代の町長が念願していた、 天主閣の解体修理を一挙に実行した。この事業には文部省と大蔵省の指導協力を得ており、全事業の完成をまって、翌十六年五月八日付で二重櫓・土塀と共に国宝に指定された。 消えてしまったはずの松山城は、 名実共に現実に帰ったのである。 全国唯一の重要文化財であり、 全国唯一の山城としてである。 誠に天の配慮であろう。
『日本の古地図 5』講談社 1976年刊 p.32
九月下旬から翌年の四月初旬にかけて、天気運が良ければ雲海に包まれる幻想的な備中松山城を見ることが出来ることで、この城は「天空の山城」などと呼ばれている。特に十月から十一月にかけて雲海が出るチャンスが多いらしく、この時期に観光客が特に多いのだそうだ。雲海に浮かぶ天守の写真は検索すればいくらでもヒットするが、備中松山城のホームページに、雲海に囲まれた城の写真や撮影スポットが紹介されているので参考にされると良い。
八合目にあるふいご峠から坂道を登るのだが、暑い日は早い時間帯を選んだ方が良いだろう。天守までは二十分程度かかるのだが結構きつかった。ふいご峠には登城者のために杖が用意されているので利用されることをお薦めしたい。

上の画像は大手門跡付近の石垣群。天然の岩盤の上に石垣が築かれている。

左側は三の丸の石垣。その上に厩曲輪の石垣があり、その上に二の丸、本丸の石垣が続く。

二の丸から撮影した天守(国重文)。現在の天守は慶長五年に小堀政次、政一が建てたものを天和三年(1683年)に水谷勝宗が改修を行ったとする説と、水谷勝宗が造営したとする説がある。

天守閣内部には、備中松山城に関する資料や、歴史や人物、平成の大修理に関する解説パネルが展示されている。

天守の北側にある二重櫓(国重文)。天然の岩盤の上に石垣を築き建てられている。
私が旅行した日はふいご峠の駐車場で車を駐めることが出来たが、混雑が予想される日は五合目から登城整理バスが運行するので、バス乗ってふいご峠に向かうことになる。バス運行のある日は、ふいご峠の駐車場に自家用車を駐めることができないので、備中松山城に行くには事前にバス運行日かどうかを確認しておく必要がある。
バス運行のある日は、五合目の城まちステーション(高梁市小高下町2730)駐車場に車を駐め、登城整理バス(大人500円、小中学生200円)に乗ってふいご峠の駐車場に行き、そこから山道を登ることになる。
バス運行のない日はふいご峠の駐車場に自家用車を駐めることが出来るが、駐車場が狭くかつ道幅が狭いことから、駐車場の空きの確認と上りと下りの車が鉢合わせすることがないように、登り口で地元の方が無線で峠の駐車場と連絡を取りながら通行整理しておられるので、その指示に従えばよい。登り口から駐車場までは一.二キロ程度の距離であり、二分もすれば駐車場に到着する。
もし、今年の八月から九月の始めに登城する計画がある方は、樹木伐採工事の為に一部区間が通行できなくなることに要注意だ。特に八月二十四日(月)から二十七日(木)、九月一日(火)から三日(木)はふいご峠の駐車場が使えないので、迂回ルートで山道を四十五分かけて登ることになる。
武家屋敷
山の麓の石火矢町に両側に土塀が続く武家屋敷通りがあり、旧折井家と旧埴原家が現在公開されている。駐車場は旧折井家の向かい側にある。かつて石火矢町は武家の屋敷地であり、県が城下町の景観保存・整備のため「ふるさと村」に指定している。

旧折井家(高梁市石火矢町23-2)は江戸時代後期の天保年間に建てられたもので、折井家は代々板倉家に仕え、馬廻り役(藩主の乗る馬の周囲に付き添い、身辺警護や伝令などを務めた役職)で石高は二百石前後であったというが、五万石であった藩主の板倉勝静は維新後明治二年(1869年)に二万石に減封されており、藩士たちも石高を大幅に減らされている。
『ノートルダム清心女子大学家政学部時報 (13)』所収の「津山及高梁両市に残存する武家屋敷について」によると、折井家は百八十石が、藩が減封された明治二年には七十二石となり、廃藩置県後は九石となったと書かれている。米一石は米一合の千倍で、概ね成人一人の米の消費量とされているが、流石に石高が二十分の一まで減らされては、生活が成り立たなくなるだろう。

母屋は書院造で、部屋には人形が置かれている。中庭の池や庭石はほぼ当時のままとされ、庭に面して建つ資料館には武具や掛け軸などが展示されている。

旧折井家から六十メートルほど南に武家屋敷旧埴原家(高梁市石火矢町27)がある。この家は江戸時代中期から後期にかけて近習役(主君の身の回りの世話や警護、政務の補佐を行う役職)や番頭頭(警護職の頭)などを務めた家で、前掲の「津山及高梁両市に残存する武家屋敷について」によると、旗奉行(馬印・旗印・幟旗とそれらを扱う足軽を指揮する役職)で百四十石であったのが、藩主が減封された時に五十六石となり、廃藩置県後は九石になったという。

埴原家は第四代藩主・板倉勝政の生母の実家で、城下の武家屋敷としては珍しく寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れている。画像は座敷で、違い棚や禅宗風の火燈窓がある。
頼久寺庭園

頼久寺(高梁市頼久寺町18)は暦応二年(1339年)に足利尊氏が諸国に命じて建立した安国寺の一つで、備中安国寺がこの寺の前身だと言われている。永正年間に備中松山城主であった上野頼久の庇護によって伽藍が整備され、頼久の死後に寺号を「頼久寺」に改めたという。

頼久寺庭園(国名勝)は、小堀遠州(政一)の若いころの作品と伝えられている。
慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いの後、小堀正次が備中国奉行として着任したのだが、慶長九年(1604年)に逝去したので、子の小堀政一(遠州)が遺領を継いだ。その頃の松山城は備中兵乱の後で荒廃していたため遠州は頼久寺を仮の居館として政務を執っていて元和五年(1619年)までこの地にいたと伝えられ、頼久寺庭園はその時に作庭されたものと言われている。しかしながら、現地にある案内板によると、小堀遠州が作庭に携わったという記録は残っておらず、詳細は不明なのだそうだ。
庭園は書院東南面に造られた蓬莱式枯山水庭園で、はるかに愛宕山を借景として取り入れ、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島を配し、サツキの大刈り込みで大海波を表現しているとされ、春のサツキの咲く頃や、秋の紅葉時期、冬の雪化粧など四季折々の美しい写真がネットで多数紹介されている。
誕生寺

高梁市でもう少し観光しても良かったのだが、予定通り誕生寺(久米郡久米南町里方)に向かう。誕生寺は浄土宗の開祖である法然上人の誕生の地に建てられたと伝えられている。
寺伝によれば、建久四年(1193年)に浄土宗開祖・法然上人の弟子であった法力房蓮生が、上人生誕の地に師が自刻した御影像を持参し、一堂を建てて念仏道場を開いたことに始まるという。法力房蓮生は、『平家物語』の「敦盛最後」の段で、平敦盛と一騎打ちで敦盛の首を斬った熊谷直実が武士をやめて出家し、法然の弟子となって名乗った法名である。
この寺は永徳年間(1381~84年)に戦火で焼かれ、再建後の天正年間(1573~92年)に再度破却されて再建されている。

上の画像は正徳五年(1716年)に建造された山門(国重文)である。伏見宮家より寄進されたと伝えられている。門のすぐ奥に見える大木は、有名なイチョウの木である。

御影堂(国重文)は元禄八年(1695年)に再建された建物である。この場所にはかつて美作の豪族・漆間時国の館があり、法然は時国の子でその館で生を受けたと伝わっている。法然の幼名は勢至丸といい、九歳までこの場所で過ごしたそうだ。

保延七年(1141年)に明石源内武者定明が不意に夜討ちを仕掛け、漆間時国は重傷を負ってしまった。時国は瀕死の床の中で、決して仇を討たないようにと勢至丸を諭し、出家することを勧めて亡くなったという。九歳の勢至丸は、母の弟が住職を務める奈義町の菩提寺に引き取られそこで修業をし、十五歳の春に比叡山に登るために母に別れを告げに来たのだが、その年に母も亡くなったと伝えられている。上の画像は勢至堂で法然上人の御両親の霊廟である。
毎年四月の第三日曜日には上人の御両親のご追恩法要である二十五菩薩練供養(お会式大法要)が行われるそうだが、この法要は室町時代から続けられており、岡山県の重要無形民俗文化財に指定されているという。

御影堂の右に大方丈と庭園(法楽園)がある。上の画像は大方丈鶴の間の襖絵『老松と鶴の図』。作者の法橋義信は幕末の雪舟と言われた著名な絵師のようだ。当時の住職が義信と同じ播州赤穂出身という縁もあって、七部屋すべての襖絵を義信が描いたという。

大方丈の庭は法楽園と名付けられている。この寺は「山陽花の寺二十四か寺」に選ばれているのだが、庭の景観を楽しむのであれば秋に訪れるのが良さそうだ。

境内に、法然上人が十五歳の時に手植えしたと伝わる大きなイチョウの木がある。高さ約十メートル、幹回り約四メートルの巨木で、岡山県の天然記念物に指定されている。よく見ると太い木の枝から父のような瘤が垂れて地中に潜っているようで、幹は上の方が太いと思われる。鑑賞するだけでパワーを授かるような気持ちになる。秋に黄色く色づいたイチョウの写真が数多く紹介されているが、法然上人が子供(勢至丸)の時に修業したと伝わる奈義町の菩提寺にはさらに一回り大きなイチョウの木があり、国の天然記念物に指定されているという。面白いことに、誕生寺のイチョウも菩提寺のイチョウも同じDNAを持っていることが判明しているそうだ。奈義町の菩提寺の大イチョウも一度見に行きたいと思っている。
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