歴史ノート

織田信長

安土城を絶賛したイエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録を読む

天守が完成して三年で焼失した安土城 安土城は天正四年(1576年)に織田信長によって琵琶湖東岸の安土山に築城された山城で、わが国で最初に大型の天守閣を持った城なのだが、天守が完成し...
支那事変(日中戦争)

蒋介石と唐生智は何を狙って南京を脱出たのか 南京戦を考える4

南京から逃亡した最高指揮官の唐生智は処刑されずに栄転した唐生智 Wikipediaより そもそも南京防衛戦の最高指揮官でありながら無責任にも南京から逃亡した唐生智は、多くの兵士を死...
支那事変(日中戦争)

蒋介石と唐生智は日本軍と戦う前に南京を脱出していた  南京戦を考える3

昭和十二年(1937年)八月に発生した第二次上海事変で日本軍は苦戦を続けていたが、相次ぐ増派により攻勢に転じ、ようやく十一月九日に上海全域を占領している。しかしながら上海線における...
支那事変(日中戦争)

大量の中国兵の死体の山が残されたのはなぜか 南京戦を考える2

挹江門ゆうこうもん事件に関するニューヨーク・タイムズの記事 前回の「歴史ノート」で台湾の「佛網電子商城」というサイトに「南京唯一の脱出路であった下関シャーカン付近では、日本軍が南京...
支那事変(日中戦争)

日中戦争における中国兵の戦い方 南京戦を考える1

中国兵の書いた日中戦争体験記 『敗走千里』 GHQ焚書処分された本の中に、中国人の陳登元が日中戦争の戦争体験を綴った手記を『敗走千里』という本がある。この本は昭和十三年に刊行されて...
支那事変(日中戦争)

蒋介石が招聘したドイツ軍事顧問団は対日戦を求めていた

前回の「歴史ノート」第二次上海事件にドイツ軍事顧問団が関わっていたことを書いた。 蒋介石は顧問団の進言を受けて、この戦いで一般市民の犠牲を出すことも厭わず、嘘のプロパガンダで日本軍...
支那事変(日中戦争)

蒋介石が日本軍と上海で戦いたかった理由~~第二次上海事件

前回の歴史ノートで、一九三七年七月七日の盧溝橋事件からわずか三週間の間に多くの日本人が虐殺されたことを書いた。とりわけ七月二十九日の通州事件では通州の在留日本人・朝鮮人三百八十人の...
支那事変(日中戦争)

盧溝橋事件の後の和平交渉がうまく行かなかったのはなぜか

教科書における盧溝橋事件の解説 昭和十二年(1937年)七月七日深夜に起こった盧溝橋ろこうきょう事件を発端としてわが国と中国との間の武力衝突が拡大していったのだが、たとえば『もうい...
戦争と共産主義

ゾルゲ諜報組織はアメリカまで伸びていた

チャールズ・ウィロビー少将はダグラス・マッカーサー大将の情報参謀で、戦後はGHQ参謀第2部 (G2) 部長として対日謀略や検閲を担当したが、わが国で共産主義勢力を増長させようと動い...
戦争と共産主義

昭和七年以降日本共産党でリンチ事件が頻発した事情

前回の「歴史ノート」記事の最後に、昭和八年(1933年)の十二月に日本共産党の宮本顕治・袴田里見らが仲間をリンチにかけて殺害した「日本共産党スパイ査問事件」のことを書いた。この事件...
戦争と共産主義

特高警察の取調べの際に用いられた暴力はどの程度のものであったのか

このブログで宮下弘の『特高の回想』の文章を何度か引用させていただいたのだが、この本を読むまでは「特高(特別高等警察)」という存在は悪いイメージしかもっていなかった。その理由は、「日...
戦争と共産主義

中国共産党に繋がる諜報ルートが解明できなかった事情

前回の「歴史ノート」で多くの共産主義者からの転向組が陸軍に入り込んだことを書いた。そしてその前の記事で、ゾルゲ諜報団が一斉に逮捕されたことを書いたのだが、特高は併行して中国共産党に...
戦争と共産主義

陸軍に共産主義からの転向者が入り込んだ影響

前回の「歴史ノート」で『近衛上奏文』の内容について紹介させていただいたのだが、近衛内閣のブレーンには多くの共産主義者がいたのは近衛の人脈に問題があり、近衛自身が重要人物を政治の中枢...
戦争と共産主義

軍部や官僚に共産主義者が多数いることを昭和天皇に上奏した近衛文麿

以前このブログでソ連のスパイであった尾崎秀実が獄中で書いた手記のことを書いたが、今回はこの尾崎を重用していた近衛文麿が、昭和二十年二月に天皇陛下に上奏した『近衛上奏文』についてその...
戦争と共産主義

ゾルゲ諜報団の一斉検挙と戦後日本の言語空間

前回の記事で、北林トモの供述に基づき宮城与徳が逮捕されたのち、宮城は仲間のこと等について固く口を閉ざしていたことを書いた。では何がきっかけで、宮城が供述を始めることになったのか。宮...
戦争と共産主義

ゾルゲ、尾崎秀実らが一斉検挙に至った経緯について

前回の歴史ノートでソ連のスパイ活動をしていた尾崎秀実が獄中で記した手記の一部を紹介した。この尾崎秀実を自白させたのは特高第一課係長であった宮下弘という人物だが、特高はその前に、アメ...
戦争と共産主義

コミンテルンのスパイ・尾崎秀実にとっての第二次世界大戦

今回はゾルゲ事件の首謀者の一人として昭和十六年(1941年)に逮捕され昭和十九年(1944年)に死刑に処された尾崎秀実おざき ほつみが、昭和十七年(1942年)三月か四月頃に獄中で...
戦争と共産主義

関東軍はコミンテルンの工作活動の重要な対象であった

張作霖爆殺事件 以前このブログで、昭和三年(1928年)六月四日に起きた「張作霖爆殺事件」について三回に分けて書いた。 通説では日本軍(関東軍)が張作霖を暗殺したとされているのだが...
戦争と共産主義

二・二六事件と中国の西安事件でわが国が戦争に引き込まれる準備が整った

昭和十年(1935年)七月から八月にかけて第七回コミンテルン大会が開催されたが、この大会の後でわが国と支那で起こった事件を調べてみると、不可解な事件や重大な出来事が相次いでいること...
戦争と共産主義

昭和天皇が二・二六事件の叛乱軍討伐を命じられた

前回の「歴史ノート」で、竹山道雄が『昭和の精神史』で昭和天皇が二度だけ例外的に御親政を行われたと書いていることを紹介した。その「二度」というのは、「二・二六事件の際と終戦の際」だと...
戦争と共産主義

なぜわが国軍隊の暴走を止められなかったのか

これまで、昭和時代の初期に学生や兵士等に赤化工作が行われ、若い世代を中心に共産主義思想が拡がっていったことを書いてきた。このことと日本軍の暴走したことと関係があるのではないだろうか...
戦争と共産主義

コミンテルンは全世界に共産主義を拡散させようとした

これまで、ソ連・コミンテルンがわが国の教育機関や軍隊に対して盛んに赤化工作を行ってきたことを書いてきたが、同様な工作を全世界レベルで行っていた。今回は彼らの世界の赤化工作について書...
戦争と共産主義

コミンテルンによる日本軍への赤化工作を考える

コミンテルン第六回大会の決議内容 「コミンテルン」は「第三インターナショナル」あるいは「国際共産党」とも呼ばれ、世界の共産主義国化のために一九一九年にモスクワで結成された共産主義運...
戦争と共産主義

満州事変後に共産主義者が大量に愛国陣営に流れたのはなぜか

前回記事で、昭和初期のわが国で多くの若者が左翼思想に共鳴し、全国の学校だけでなく軍隊にも赤化工作が行われていたことを書いた。当時は私利私欲で動く政治家が政争を繰り返し、庶民は貧困に...
戦争と共産主義

昭和初期に多くの若者が左翼思想に共鳴したのはなぜか

前回記事で、小学校から大学まで多くの赤化教員が潜り込んで生徒に左翼思想が拡げられたことなどを書いた。 では、コミンテルンが日本共産党に指令した赤化工作が、実際のところ当時の生徒たち...
戦争と共産主義

ソ連・コミンテルンによる教育機関の日本赤化工作

前回は一九二八年(昭和三年)の七月から九月にかけてモスクワで第六回コミンテルン大会が開催され、七月には長春、奉天、鉄嶺、安東の日本軍に対して赤化宣伝文書が大量配布されたことが国民新...
戦争と共産主義

ソ連・コミンテルンによる初期の日本赤化工作

「赤化せっか」という言葉は今ではほとんど死語になってしまったが、共産主義的な思想や機構を広めていくことを意味している。戦後に出版された本やマスコミの解説などで触れられることはほとん...
文明開化とその裏面

わが国で最初に石油を製造した石坂周造

わが国の石油消費量のほとんどは中東などから輸入されているが、わずかながらわが国でも秋田県や新潟県を中心に石油の生産が行われており、国内生産量は2022年で41万キロリットルで国内消...
文明開化とその裏面

政府が欧風化を推進した文明開化の時代に、国産品を奨励した僧侶・佐田介石

技術進歩の激しい時代には、新技術をいち早く導入した者が、多くの人々の仕事を奪い取って失業させることになる。それはある程度やむを得ないものではあるのだが、その変化が激しすぎると各地で...
文明開化とその裏面

明治天皇が『教育勅語』を渙発された経緯

明治の初めのころ「文明開化」の名のもとに、わが国で極端な欧化主義的な考え方が支配したことはこのブログで何度か書いてきた。 わが国が近代国家として西欧に対抗するためには、西欧の技術や...
文明開化とその裏面

伊藤博文・井上馨が主導する鹿鳴館外交を正面から批判した谷干城

鹿鳴館外交を推進した伊藤博文と井上馨 明治政府が採用した欧化政策のなかで、最も極端であったのは鹿鳴館の舞踏会騒ぎであった。 明治十六年(1883年)八月に伊藤博文がヨーロッパ諸国の...
文明開化とその裏面

暦を急遽太陽暦に改めることを強行した政府と国民の反応

改暦の詔書下る『新聞集成明治編年史 第一卷』p.512 明治政府が太政官布告第三百三十七号『太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス』を出した日付は明治五年(1872年)十一月九日のことなのだが...
文明開化とその裏面

郵便事業を創始した前島密は飛脚屋の失業対策まで考え抜いていた

郵便事業が開始される前は飛脚が信書を運んでいた 前回記事で明治時代の電信業の始まりの苦労について書いたが、今回は郵便事業の始まりについて書くことにしたい。 明治政府が郵便事業を開始...
文明開化とその裏面

電信工事に対する民衆の妨害活動や流言飛語に手を焼いた明治政府

ペリーが徳川将軍に贈った電信機 前回の「歴史ノート」で、嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に横浜で汽車の模型を動かしたところ、幕府の役人が子どものように喜んだこと...
文明開化とその裏面

沸騰した反対論に打ち克ち、東京横浜間に蒸気機関車を走らせた大隈重信

ペリーが持ち込んだ汽車の模型 嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人たちが、まるで子供のように喜んだことがペリーの『日本...
文明開化とその裏面

大日本帝国憲法が発布された日に初代文部大臣・森有禮が暗殺された事情

西欧文明に傾倒した森有禮 森有禮もりありのりは弘化四年(1847年)に薩摩藩士森喜右衛門の五男として生まれ、元治元年(1864年)より藩の洋学校である開成所に入学して英学講義を受講...
文明開化とその裏面

鹿鳴館時代に提出された条約改正案は欧米に媚びる内容で世論の大反対を受けた

前回の「歴史ノート」で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館ろくめいかん時代であることを書いた。 鹿鳴館は明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決...
文明開化とその裏面

極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰か

極端な欧化主義が推進された 文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いた...
文明開化とその裏面

『文明開化』施策という極端な欧化主義政策が破壊したもの

文明開化とその反動 前回の「歴史ノート」で、歴史学者・徳重浅吉が、明治政府は「御一新の名によって嵐の如く旧物を破壊し尽くしたかの観さえある」と書いていることを紹介した。 『文明開化...
文明開化とその裏面

旧来の伝統や文化を廃止しようとした政府と、それに抵抗した人々

欧化主義的実利思想 文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』に、廃藩置県以降の政治について次のように記している。 廃藩置県後における政府の事業は、復古的、保...
文明開化とその裏面

和装から洋装への移行期における混乱

急激な洋装の普及 江戸時代の日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化していったのが明治の初期のことである。 和装のままでも生活...
文明開化とその裏面

明治の文明開化期における日本の伝統、文化、景観破壊

五箇条の御誓文 慶応四年(1868)三月十四日、明治天皇は京都御所の紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、明治維新の基本方針である「五箇条の御誓文」を神前に奉読され、その場に伺候する全...
支那排日

我が国の国際連盟脱退までの米国及び支那の動き 支那排日9

張学良はなぜ山海関事件を起こしたか 前回の「歴史ノート」で、一九三二年十一月二十一日から開催された満州問題に関する国際連盟理事会において日本全権松岡洋右との論戦に勝てず、英仏が日本...
支那排日

第一次上海事件後の支那の動き 支那排日8

前回の「歴史ノート」で、一九三一年のアメリカの対支輸出額が、それまで首位であった我が国を抜いて一位になったことを書いた。このことは支那で行われた日貨排斥運動がなければなし得なかった...
支那排日

アメリカが対支貿易額で日本を追い抜いた 支那排日7

国際経済戦の中で行われた支那排日 前回の「歴史ノート」で、昭和七年一月に第一次上海事変が起きるまでの支那の排日運動の状況について書いたが、この事変が起きたことで再び排日運動が活発化...
支那排日

支那排日運動の背後で動いていたのは何処の国か 支那排日6

前回の「歴史ノート」で、昭和六年に柳条湖事件が起きてわが国は満州事変に巻き込まれて行くのだが、支那の排日貨運動再び激しくなりより徹底化される一方、支那はソ連や英米に接近して日本を孤...
支那排日

満州事変後に支那排日運動が再び激化した  支那排日5

一面抵抗、一面交渉 前回の歴史ノートで満州事件のきっかけとなった柳条湖事件が起きるまでの支那の排日運動がいかなるものであったかについて述べて来たのだが、満州事変以降は支那の排日運動...
支那排日

支那の排日運動はどのように変化していったか 支那排日4

大正八年(1919年)の排日運動 前回の歴史ノートで西安事件で蒋介石が張学良に拉致されたあと第二次国共合作が成立したことを書いたが、今回はそれまでの排日運動で実際にどのようなことが...
支那排日

日貨排斥から抗日戦へ 支那排日3 

前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まって以降日貨排斥が行われることになり、そのやり方が次第に過激になっていったことを述べたが、昭和十年(1935年)以降になると排日運動は次第...
支那排日

支那の排日運動の主役が共産勢力に変わった 支那排日2

前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まったのは大正八年(1919年)で、当時北京の支那人の家に下宿した長野朗の『支那三十年』(GHQ焚書)によると、初期における支那の排日運動の...