文明開化とその裏面 郵便事業を創始した前島密は飛脚屋の失業対策まで考え抜いていた 郵便事業が開始される前は飛脚が信書を運んでいた 前回記事で明治時代の電信業の始まりの苦労について書いたが、今回は郵便事業の始まりについて書くことにしたい。 明治政府が郵便事業を開始したのは明治三年(1870年)のことなのだが、それ以前に信書... 2025.03.30 文明開化とその裏面
文明開化とその裏面 電信工事に対する民衆の妨害活動や流言飛語に手を焼いた明治政府 ペリーが徳川将軍に贈った電信機 前回の「歴史ノート」で、嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に横浜で汽車の模型を動かしたところ、幕府の役人が子どものように喜んだことを書いたが、ペリーは同時に電信機のデモンストレーションをも実... 2025.03.23 文明開化とその裏面
文明開化とその裏面 沸騰した反対論に打ち克ち、東京横浜間に蒸気機関車を走らせた大隈重信 ペリーが持ち込んだ汽車の模型 嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人たちが、まるで子供のように喜んだことがペリーの『日本遠征記』に残されている。ペリー 小さい機関車と、客車と炭水車... 2025.03.16 文明開化とその裏面
文明開化とその裏面 大日本帝国憲法が発布された日に初代文部大臣・森有禮が暗殺された事情 西欧文明に傾倒した森有禮 森有禮もりありのりは弘化四年(1847年)に薩摩藩士森喜右衛門の五男として生まれ、元治元年(1864年)より藩の洋学校である開成所に入学して英学講義を受講し、翌年には薩摩藩の第一次英国留学生として五代友厚らとともに... 2025.03.09 文明開化とその裏面
文明開化とその裏面 鹿鳴館時代に提出された条約改正案は欧米に媚びる内容で世論の大反対を受けた 前回の「歴史ノート」で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館ろくめいかん時代であることを書いた。 鹿鳴館は明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治十六年(1883年)十一月二十八日に落成した建物で... 2025.03.02 文明開化とその裏面
文明開化とその裏面 極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰か 極端な欧化主義が推進された 文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したあと、次のように述べている。 当時に於ける革新的、... 2025.02.23 文明開化とその裏面
文明開化とその裏面 『文明開化』施策という極端な欧化主義政策が破壊したもの 文明開化とその反動 前回の「歴史ノート」で、歴史学者・徳重浅吉が、明治政府は「御一新の名によって嵐の如く旧物を破壊し尽くしたかの観さえある」と書いていることを紹介した。 『文明開化』の時代に、政府は日本土着の習俗や信仰などを「悪弊」「旧習」... 2025.02.16 文明開化とその裏面
文明開化とその裏面 旧来の伝統や文化を廃止しようとした政府と、それに抵抗した人々 欧化主義的実利思想 文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』に、廃藩置県以降の政治について次のように記している。 廃藩置県後における政府の事業は、復古的、保守的よりも、むしろ革新的、進歩的の色彩を多量に帯びていた。祭... 2025.02.09 文明開化とその裏面
文明開化とその裏面 和装から洋装への移行期における混乱 急激な洋装の普及 江戸時代の日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化していったのが明治の初期のことである。 和装のままでも生活に支障があわけではなかったと思うのだが、周囲の人々の洋装化が... 2025.02.02 文明開化とその裏面
文明開化とその裏面 明治の文明開化期における日本の伝統、文化、景観破壊 五箇条の御誓文 慶応四年(1868)三月十四日、明治天皇は京都御所の紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、明治維新の基本方針である「五箇条の御誓文」を神前に奉読され、その場に伺候する全員が署名した。幟仁親王が揮毫した御誓文の原本 Wikiped... 2025.01.26 文明開化とその裏面
支那排日 我が国の国際連盟脱退までの米国及び支那の動き 支那排日9 張学良はなぜ山海関事件を起こしたか 前回の「歴史ノート」で、一九三二年十一月二十一日から開催された満州問題に関する国際連盟理事会において日本全権松岡洋右との論戦に勝てず、英仏が日本を支持する側に廻ったことを不満とした支那が、国際連盟に参加し... 2024.12.15 支那排日
支那排日 第一次上海事件後の支那の動き 支那排日8 前回の「歴史ノート」で、一九三一年のアメリカの対支輸出額が、それまで首位であった我が国を抜いて一位になったことを書いた。このことは支那で行われた日貨排斥運動がなければなし得なかったのだが、その運動に裏で英米が関与していた可能性がかなり高いこ... 2024.12.08 支那排日
支那排日 アメリカが対支貿易額で日本を追い抜いた 支那排日7 国際経済戦の中で行われた支那排日 前回の「歴史ノート」で、昭和七年一月に第一次上海事変が起きるまでの支那の排日運動の状況について書いたが、この事変が起きたことで再び排日運動が活発化することになる。 戦後の歴史叙述では支那排日が英米の動きと並... 2024.11.24 2024.12.08 支那排日
支那排日 支那排日運動の背後で動いていたのは何処の国か 支那排日6 前回の「歴史ノート」で、昭和六年に柳条湖事件が起きてわが国は満州事変に巻き込まれて行くのだが、支那の排日貨運動再び激しくなりより徹底化される一方、支那はソ連や英米に接近して日本を孤立化させ消耗させようと動き、その背後には英米が動いていて、彼... 2024.11.17 2024.11.30 支那排日
支那排日 満州事変後に支那排日運動が再び激化した 支那排日5 一面抵抗、一面交渉 前回の歴史ノートで満州事件のきっかけとなった柳条湖事件が起きるまでの支那の排日運動がいかなるものであったかについて述べて来たのだが、満州事変以降は支那の排日運動が大きく変化することになる。 長野朗は支那の民族運動を三期に... 2024.11.10 2024.11.30 支那排日
支那排日 支那の排日運動はどのように変化していったか 支那排日4 大正八年(1919年)の排日運動 前回の歴史ノートで西安事件で蒋介石が張学良に拉致されたあと第二次国共合作が成立したことを書いたが、今回はそれまでの排日運動で実際にどのようなことが起こっていたかについて、当時の記録を紹介しながらまとめること... 2024.10.20 2024.11.30 支那排日
支那排日 日貨排斥から抗日戦へ 支那排日3 前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まって以降日貨排斥が行われることになり、そのやり方が次第に過激になっていったことを述べたが、昭和十年(1935年)以降になると排日運動は次第に局面が変わっていくことになる。北支問題を契機に抗日運動が爆... 2024.10.13 2024.10.19 支那排日
支那排日 支那の排日運動の主役が共産勢力に変わった 支那排日2 前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まったのは大正八年(1919年)で、当時北京の支那人の家に下宿した長野朗の『支那三十年』(GHQ焚書)によると、初期における支那の排日運動の背後には英米が動いていたことなどを紹介させていただいた。次第... 2024.09.29 2024.11.30 支那排日
支那排日 支那の排日運動は英米が仕掛けて広がった 支那排日1 五四運動から支那の排日運動が始まった 支那の排日運動が本格化したのは大正八年(1919年)からなのだが、中国研究者の長野朗が昭和十七年に著した『支那三十年』に、支那で排日運動が起こった事情が記されている。長野は当時北京の中国人の家に一人で下... 2024.09.22 支那排日
満州事変から国際連盟脱退 わが国が国際連盟を脱退した経緯⑧ その後の張学良・蒋介石の動き 総会決議前後の張学良の動き 前回の記事で一九三三年二月二十四日に国際連盟総会において松岡洋右が最後の演説を行い、そのあとで満州問題に関する報告書草案の採決が行われ、賛成四十二票、反対一票で可決されたことを書いた。草案には、国際連盟は満州の主... 2024.09.15 2024.11.30 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 わが国が国際連盟を脱退した経緯⑦ 最後の松岡演説と連盟脱退 前回に引き続き、一九三三年二月二十四日に開かれた国際連盟特別総会に於ける、報告書草案採決直前の松岡の最後の演説の紹介を続けることしたい。国際連盟の満州認識について 松岡はリットン報告書における満州理解の誤りについて以下のように述べている。 ... 2024.09.08 2024.12.11 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 わが国が国際連盟を脱退した経緯⑥ 総会を意識した張学良の動きと最後の松岡演説前半 運命の国連総会の日が決まる 前回の「歴史ノート」で、昭和八年の正月以降の支那やアメリカ、国連事務局等の動きを書いたが、アメリカが圧力をかけたことで国際連盟の委員会の流れが一気に変わり、満州国を承認しない方向に傾いていったことを書いた。「神戸... 2024.09.01 2024.11.30 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 わが国が国際連盟を脱退した経緯⑤ 山海関事件とアメリカの干渉で流れが変わった 山海関事件「神戸大学新聞記事文庫」外交122-3 前回の「歴史ノート」で、一九三二年十二月八日の国際連盟総会における松岡洋右の演説とその直後の支那の動きを書いたのだが、一九三三年の正月早々に万里の長城の東端の山海関さんかいかんにある日本憲兵... 2024.08.25 2024.12.11 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 わが国が国際連盟を脱退した経緯④ 論戦では松岡が圧倒したが多数派工作が始まった 11/23国際連盟理事会における松岡演説 前回、前々回の歴史ノートで昭和七年(1932年)十一月二十一日の国際連盟理事会における松岡洋右の演説のポイントを纏めてみたが、その日に中国代表の顧維鈞こいきんも演説を行っている。そして十一月二十三日... 2024.08.18 2024.12.11 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 わが国が国際連盟を脱退した経緯③ 我々は侵略者ではない 前回の「歴史ノート」で国際連盟理事会でわが国の全権松岡洋右が昭和七年十一月二一日に演説をした内容の前半部分のポイント部分を紹介させていただいたが、今回はその後半部分について書くこととしたい。満州事変は不戦条約違反ではない リットン報告書では... 2024.08.11 2024.12.11 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 わが国が国際連盟を脱退した経緯② 支那の内乱と排日運動の実態 「リットン報告書」に批判的な海外論調が少なくなかった 前回の記事で、一九三二年十月一日に「リットン報告書」が国際連盟に提出され、わが国はその内容を不服として意見書を提出したのだが、満州事変以降の日支紛争について国連総会が開かれることが決定す... 2024.08.04 2024.12.11 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 わが国が国際連盟を脱退した経緯① 満州国独立承認と「リットン報告書」に反論 前回の歴史ノートで、「リットン報告書」はその調査姿勢にそもそも問題があり、予想されていた通り報告書は支那に有利な内容となったのだが、世界の論調はこの報告書に批判的なものが少なくなかったことを紹介させていただいた。今回は、わが国と国連との間で... 2024.07.28 2024.11.30 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 リットン調査団は満州でトラブル続きだった 前回の「歴史ノート」で、「リットン報告書」の内容はどのようなものであったかについて書いたのだが、調査団が決して公平中立的な立場で情報収集していなかったことは、当時の新聞にもしっかりと報じられている。戦前の日本人なら誰しも憤慨したであろう重要... 2024.07.07 2024.07.19 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 「リットン報告書」には何が書かれていたか リットン調査団の派遣 一九三一年昭和六年九月十八日に満州事変の発端となった柳条湖事件が起きたのだが、その三日後に支那政府は紛争の拡大防止を国際連盟に提訴している。それを受けて国際連盟理事会が開かれたのは九月三十日のことで、この時には支那の提... 2024.06.30 2024.07.19 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 中国が満州国を「偽満州国」「傀儡国」と呼んだ事情 満州はいつから漢民族が支配するようになったのか 紀元前三世紀に中国を統一した秦の始皇帝は、遊牧民が生活していた満州・蒙古を統一することが出来ず、彼らによる北方からの侵入を防ぐために万里の長城を建設している。このことは二千年前において満州・蒙... 2024.06.23 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 満州各地で独立運動が起きたのはなぜか 張学良軍が総崩れとなった理由 一九三一年九月十八日、奉天から北東に八キロ程の柳条湖で、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破された。この付近の警備に当たっていた関東軍守備隊は大隊本部と特殊機関に報告をし、関東軍はこれを張学良率いる東北軍の仕業... 2024.06.16 2024.06.19 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 米国外交官が記した柳条湖事件の真実 柳条湖事件が起きるまでに満鉄施設が何度支那人に襲われたか このブログで何度か昭和六年(1931年)に満州事変の発端となった柳条湖事件のことを書いてきた。 繰り返しになって申し訳ないが、満州事変に関するわが国の戦後の歴史叙述では、昭和三十一年... 2024.06.09 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 満州民族の故地・満州の人口の九割が漢民族となった経緯 前回記事で、満州は満州族の故地で漢民族はかつてわずかしか居住していなかったのだが、清末以降に大量の漢民族が満州に移り住むようになって、一九三八年頃には満州の人口の九割が漢民族となったことを書いた。今回はこの点についてもう少し詳しく書くことと... 2024.05.13 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 わが国が開拓した満州を狙っていた国々 わが国が「満州」の開拓を始めた歴史的経緯 「満州」という言葉は「州」の字が付くことから、地名と誤解されることが多いのだが、中国語では土地の名前ではなく民族名、即ち満州民族を意味している。しかしながら、清国を支配した満州族の居住地域を、英語で... 2024.05.09 満州事変から国際連盟脱退
満州事変から国際連盟脱退 戦後「満州」「満州国」に関する多くの真実が封印されてきた 戦前のわが国や世界で、満州についてどのように論じられていたか 現在の中国東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)、及び内蒙古、熱河省を領土として一九三二年(昭和7年)に「満州国」という国が成立したのだが、戦後のわが国においてマスコミや書物などを... 2024.05.05 2024.06.02 満州事変から国際連盟脱退
フィリピン 日本陸海軍がレイテ島で脆くも敗れた背景 ラウレル政権の正体ホセ・ラウレル 1943年 前回の記事で、フィリピン第二共和国のホセ・ラウレル大統領は日本の傀儡ではないことを書いたのだが、ラウレルは回顧録を残しており、十月に挙行される建国式典の直前に日本を訪問して東條首相らと会談してい... 2024.04.02 フィリピン
フィリピン 日本軍がフィリピン人の親日派から支持を失っていったのはなぜか 日本軍政時代の写真 前回の記事で、わが国は昭和十八年(1943年)五月の御前会議でフィリピンを独立させることを決定し、十月にホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が誕生したことを書いたが、日本軍によるフィリピン占領からフィリピン第... 2024.03.29 フィリピン
フィリピン コレヒドール要塞攻略 コレヒドール要塞 バターン半島の沖合にコレヒドール島があり、そこにはスペイン統治時代からマニラ湾を守るための要塞が築かれていたのだが、フィリピンがアメリカ領となったのちアメリカはその補強工事を行い、30センチカノン砲8門、30センチ榴弾砲1... 2024.03.25 フィリピン
フィリピン 「バターン死の行進」を考える バターン半島攻略戦 前回記事で1942年3月11日にマッカーサーがフィリピンを脱出したことを書いたが、その後日本軍は砲兵隊、航空部隊を増強し、3月24日から攻撃機によるバターン半島の爆撃が開始され、4月3日から地上部隊による総攻撃が開始され... 2024.03.21 2024.03.24 フィリピン
フィリピン 日本軍のバターン半島攻略戦でフィリピンを脱出したマッカーサー司令官 フリーメーソンの資格を与えられたマッカーサー 前回の記事で、ダグラス・マッカーサーが一九三五年にフィリピン軍の軍事顧問に就任したことを書いたが、『マッカーサー回想記』を読むとマニラ到着後母が亡くなり、その後フリーメーソンの資格が与えられたと... 2024.03.17 2024.03.24 フィリピン
フィリピン アメリカによるフィリピン統治とマッカーサー家 米西戦争から米比戦争 1898年2月、キューバの港ハヴァナで何者かにメイン号が爆破されて多くの死者が出たことをきっかけに、「メイン号を忘れるな!」(リメンバー・ザ・メイン)の戦争国民標語はたちまち全米を風靡して交戦ムードが高まり、アメリカは... 2024.03.13 2024.03.24 フィリピン
廃仏毀釈・神仏分離 但馬妙見山の妙見信仰と神仏分離 但馬妙見山の妙見信仰 昨年の秋にこのブログで大阪府にある能勢妙見山のことを書いたが、この能勢妙見山は、福島県相馬市の相馬中村神社、熊本県八代市の八代神社とともに日本三大妙見の一つに数えられている。しかしながら、かつては兵庫県八鹿にある但馬妙... 2023.12.02 廃仏毀釈・神仏分離
明治初期の暗殺事件 明治四年一月に廣澤眞臣を暗殺した黒幕は、政権中枢にいた人物ではなかったか 明治十七年(1884年)に山崎之人が著した『維新元勲十傑論』という本がある。この本において著者は明治維新に尽力した志士の十人として、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、江藤新平、横井平四郎(小楠)、大村益次郎、小松帯刀、前原一誠、廣澤兵助(眞臣... 2023.07.02 明治初期の暗殺事件
明治初期の暗殺事件 明治二年九月に大村益次郎の命が狙われた経緯 大村益次郎 前回は明治二年一月に起きた横井小楠の暗殺事件について書いたが、その八か月後に大村益次郎暗殺事件が起きている。今回は大村益次郎がどのような人物であり、暗殺された経緯について記すことと致したい。幕末の大村益次郎 大村益次郎は文政八年... 2023.06.10 2023.06.21 明治初期の暗殺事件
明治初期の暗殺事件 明治二年正月の横井小楠暗殺を追う 前回の記事で奇兵隊が明治二年(1869年)に政府に反旗を翻したことを書いたが、明治の初期には政府の要人が相次いで暗殺されている。同じ明治二年の一月に参与の横井小楠(よこい しょうなん)が暗殺され、九月には兵部大輔の大村益次郎、明治四年(18... 2023.05.03 明治初期の暗殺事件
版籍奉還から廃藩置県、府県統合 旧長州の奇兵隊が明治新政府に反旗を翻した事情 骨抜きされた木戸孝允の「版籍奉還論」 教科書などでは明治維新がスムーズに行われたかのように描かれているのだが、幕府が倒れて政権が朝廷に戻ったといっても当初において朝廷は軍隊を持っておらず、戊辰戦争の征東軍は勤王諸藩から兵を借りて、藩の軍費は... 2023.04.25 2023.04.26 版籍奉還から廃藩置県、府県統合
関東大震災 関東大震災の悲惨な状況を伝えた関西の新聞記者 前回の記事で少し触れたが、東京や横浜に本社を構えていた新聞社は各社とも大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で壊滅的な被害を受けたために、関西の新聞記者が関東に出張して各地の情報を収集して報じている。最も早い記事は関東大震災翌日付の大... 2023.02.06 関東大震災
関東大震災 関東大震災の「火災旋風」を報じた新聞記事 このブログで関東大震災について五回に分けて書いたことがある。東京では銀座も日本橋も焼け、神田も浅草も焦土となったのだが、最大の被害が出た場所は本所区本所横綱町(現在の墨田区横綱)にあった本所被服廠跡(現:横綱公園、両国中学、日大第一中・高等... 2023.02.03 関東大震災
歴史ノート 布教権を中国市場開拓の武器とした米国に関する新聞記事を読む 中外商業新報「支那に於ける米国勢力」を読む 前回の記事で、中国に利権を得た欧米列強が宣教師を送り込み学校や病院を建設した一方、わが国は清国との条約上布教の自由が認められていたにもかかわらず、欧米の圧力に屈した支那政府から拒絶され、我が政府は... 2022.12.30 2023.09.17 歴史ノート
尼港事件 尼港事件を目撃して奇しくも生き残った日本人の証言を読む~~尼港事件2 大正九年の尼港事件で、尼港に居住していた七百数十名の日本人の殆んどが共産パルチザンによって殺害されたのだが、わずかながら生き残った日本人がいて、毛皮商人と海軍士官の二人の証言が残されている。 2022.11.27 2024.11.07 尼港事件