テロ・暗殺

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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

大久保利通暗殺事件と石川県の三分割 ~~北陸3

明治11年5月に、石川県の不平士族らが大久保利通を襲い殺害する事件が起き、その二か月後に町村編制法・府県会規則・地方税規則(「三新法」)が公布され、ようやく府県会の選挙が行われることとなり、自由民権運動が活発化して、各地で分県に関する議論に火が付いた。14年に石川県から福井県が分離することが決まり、16年には富山県が分離することが決定した。
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版籍奉還から廃藩置県、府県統合

明治二年から四年にかけての明治政府はいつ崩壊してもおかしくなかった~~廃藩置県への道

版籍奉還後の鹿児島藩、山口藩の混乱  前回記事で、明治二年(1869年)に行われた版籍奉還のことを書いた。伊藤博文や大隈重信は、これを機に封建的支配体制を一気に解体し、郡県制を布いて中央の統制権を高めることを望んだのだが、当時の情勢...
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明治初年の外国人殺傷事件

知恩院からイギリス公使パークス襲撃事件の現場を訪ねて

慶応四年二月三十日に英公使パークス襲撃事件が起きたが、一行は知恩院を出発して新橋通りを直進し、縄手通りを右折するところで二人の凶漢に襲われた。実際に知恩院から襲撃地点まで歩き、犯人の墓を訪ねてみた。 犯人の一人はその場で首を斬られ、もう一人の三枝蓊は武士の身分を剥奪された上で斬首されたが、二人は霊山墓地に「神霊」と彫られた墓に眠っている。
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明治初年の外国人殺傷事件

相次いだ外国人殺傷事件と五箇条の御誓文

五箇条の御誓文は大政奉還から五か月近くも経過してから発布されている。当時は新政府周辺に外国との交際を拒絶する者が少なくなく、「開国和親」という方針が決定してもそれに抵抗する動きが強かった。しかし、その後も外国人襲撃事件が相次ぎ新政府の危機を経験したタイミングで木戸孝允が動き、由利・福岡の案を修正し、五箇条の御誓文が発布されている。
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明治初年の外国人殺傷事件

天皇の謁見を賜う途上で起きたイギリス公使・パークス暗殺未遂事件

堺事件が解決した後、慶応四年二月三十日に天皇が各国公使を謁見することが決定し、英仏蘭の公使が御所に向かったが、英公使のパークスが皇居に向かう途中で難に遭った。パークスは中井弘蔵、後藤象二郎の奮闘で無事であったが、11名が負傷した。仏公使のロッシュは宴席でその情報を聞き、直ちにパークスを見舞いに行き、共に徳川を支援しようと声をかけたがパークスは断った。
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明治初年の外国人殺傷事件

神戸事件責任者処刑の六日後に起きた、土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件~~堺事件

神戸事件が解決後、今度は堺で土佐藩兵とフランス人とのトラブルが発生し、11名の若いフランス人が殺害される事件(堺事件)が起きている。堺の治安回復を任された土佐藩は内地旅行の免状がなければ外国人を堺に入れない方針をとり、堺港から上陸しようとしたフランス人を土佐藩兵が撃ちまくった。フランス公使は激怒し、新政府と交戦することを辞さない姿勢であった。
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明治初年の外国人殺傷事件

鳥羽伏見の戦いの数日後に神戸で起きた備前藩兵と外国軍との間の銃撃戦~~神戸事件

鳥羽伏見の戦いが終わった直後に、備前藩兵が今の三宮神社近辺で偶々この隊列を横切ろうとした外国人とトラブルが発生し、拳銃を構えた外国人に発砲したことから、外国軍も交えての銃撃戦が始まった。死者はなかったが、外国人は新政府に対し、責任者の厳罰を要求した。新政府は「開国和親」に舵を切り、備前藩に責任者の切腹を要求。瀧善三郎は全てを引受け、外国人の目の前で割腹し、この事件が解決した。
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最後の将軍・慶喜の時代

孝明天皇は病死したのか、あるいは毒殺されたのか

孝明天皇の死に関しては、古くから毒殺説があり、英外交官のアーネスト・サトウの著書にもそのような噂があると書いている。天皇の主治医の手記を読むと、天皇の疱瘡は順調に回復しているとの診断後、容体が急変しており、誰かが砒素を盛ったことを疑う理由がある。具体的には岩倉具視や大久保利通が関与したことを疑われているが、いずれも親幕派の天皇の排除を望む理由があった。
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攘夷の実行と諸外国の動き

外国人襲撃事件が頻発する中で起きた生麦事件と英国人らの反応

坂下門外の変後幕府は閣老らを大幅に入れ替え、従来の格式を打ち破って参勤交代の頻度を減らすなど大名の負担を軽減し、朝廷の機嫌をとったりしたのだが、その結果幕府の力はさらに弱まり、過激分子が外国人を襲撃する事件が多発するようになった。生麦事件の後、幕府に対する外国人の不満が爆発し、薩摩藩に復讐する意見が盛り上がったのだが、ニール英国代理公使の発言で武力衝突が避けられた。
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公武合体と尊皇攘夷

尊皇攘夷派の武士が増加した背景と坂下門外の変

開港後外国貿易が急速に拡大し、主要輸出品である生糸、茶などの価格が高騰し、消費階級である武士や公家の生活が困窮した。武士の外国人に対する反感や憎悪の念が、幕府に対する不満の情と結合し、外国人を暗殺する事例が相次いだが、文久二年一月には開国政策を進め、和宮降嫁を推進した老中・安藤信正が水戸浪士に襲撃され、一命をとりとめたが失脚した。
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安政の大獄から桜田門外の変

桜田門外の変と、その後の薩摩藩、彦根藩、幕府の動き

安政七年三月三日の朝は、桃の節句にしてはかなり寒く、雪が降り積もっていた。合図とともに水戸の志士達は前衛を衝き斬り込んだが、彦根藩警固の士は不意を襲われ、雪のために刀の柄や鞘を羅紗袋などで覆っていたため刀がすぐに抜けず、簡単に輿の戸を破られ、井伊大老の首を落とされている。その後彦根藩は、井伊家が取り潰しにならないように、大老の死を隠蔽し、幕府も彦根藩が断絶とならないように協力した。
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安政の大獄から桜田門外の変

水戸藩・薩摩藩が井伊大老の暗殺を計画した経緯

安政五年より薩摩藩で井伊大老暗殺の計画があり、水戸藩士の一部もその密議を重ねていた。安政六年の末に大老井伊直弼は水戸藩に下された戊午の密勅を幕府に納めさせようと、朝廷から勅書返納の御沙汰書を手配させ、水戸藩主の徳川慶篤に強硬に迫り、密勅を幕府に納めようとする藩の動きに藩士たちが立ち上がり、暗殺計画が動き出した。
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関東大震災

震災直後の朝鮮人殺害は流言飛語によるものとする通説への疑問

当時の記録を読むと、地震直後に朝鮮人による放火や掠奪が起こっており、ダイナマイトも多数押収されている。朝鮮独立を目指していた義烈団は大正10年に裕仁皇太子(後の昭和天皇)を誘拐する計画を実行しようとしたし、上海仮政府は大正12年の皇太子の結婚の儀にテロを行う計画があった。偶々大震災が起こり、テロを行う好機と考えたとの朴烈の証言もある。
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関東大震災

関東大震災のあと避難者たちが「朝鮮人暴動」を怖れたのはなぜか

通説では関東大震災の混乱の中で「朝鮮人暴動」の流言が広まり、これに不安を感じた住民の自警団が多数の朝鮮人を殺害したとされている。しかしながらそのような流言がなぜ広まった時代背景や殺害の具体的な記述がされることはない。 当時の新聞を読むと連日朝鮮人による犯罪やテロ準備の記事が出ているのだが、この事実を書かないのは歴史叙述として公平でないと思う。
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