和宮降嫁

攘夷の実行と諸外国の動き

兵庫開港と条約勅許等を求めて軍艦九隻を大阪湾に送り込んだ四ヵ国連合~~下関戦争3

1865年7月に第二代公使のパークスが着任した当時、英国は下関戦争の講和にあたり、幕府下関開港ではなく償金支払いを選んだことに不信感を持っていた。英国は下関開港を望み、長州藩もそれを了解していたのだが、幕府は関税収入が長州に入ることを望まなかった。英国は幕府が償金の支払延期を申し出て来たのを機に、九隻の軍艦を大阪湾に向けて兵庫開港、条約勅許、関税引下を迫っている。
公武合体と尊皇攘夷

尊皇攘夷派の武士が増加した背景と坂下門外の変

開港後外国貿易が急速に拡大し、主要輸出品である生糸、茶などの価格が高騰し、消費階級である武士や公家の生活が困窮した。武士の外国人に対する反感や憎悪の念が、幕府に対する不満の情と結合し、外国人を暗殺する事例が相次いだが、文久二年一月には開国政策を進め、和宮降嫁を推進した老中・安藤信正が水戸浪士に襲撃され、一命をとりとめたが失脚した。
公武合体と尊皇攘夷

皇女和宮を将軍徳川家茂に降嫁させたことが幕府の権威失墜を招いた

老中・安藤信正は井伊直弼の剛直な武断政治を改め、さらに公武合体の成果を国内に示すために和宮を将軍・徳川家茂へ降嫁させようとした。この話は孝明天皇に一旦却下されたが幕府は諦めず、和宮周辺の説得工作を続けて再度を奏請している。岩倉具視らは、朝威を回復する好機とであると上奏し、天皇は攘夷を行うことを条件とすると幕府はそれを承諾し、天皇は和宮の降嫁を勅許した。