2020-04

開国前後

将軍継嗣問題の対立が深まるなかで、相次いで無勅許で結ばれた安政五カ国条約

安政五年四月に日米修好通商条約の勅許取得に失敗した堀田正睦が江戸に戻ると、南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり幕府の主導権を握った。イギリスが通商条約締結のために日本に向かっているとの情報が入り、急遽日米修好通商条約を締結。その後蘭、露、英、仏と相次いでどう同様な条約を結んだが、勅許を得ずに調印を進めたことで朝幕間の対立が深まり、攘夷派の幕府攻撃が過激化した。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した日本の通史~~北垣恭次郎『新訂小学国史の指導精神.高2』

GHQが焚書処分した本の中で、彼らがどのような意図をもって戦後の日本人に読めなくしたかが一番わかりやすいのが、わが国の歴史に関する通史を戦後の一般的な通史と読み比べることだと思う。  戦前・戦中の歴史書でGHQが焚書にした本といえば、「軍国...
開国前後

『日米通商修好条約』が無勅許で調印された経緯

ハリスの演説後老中堀田正睦は外国掛の井上清直、岩瀬忠震に通商条約交渉を開始させ、条文が完成すると、調印の前に勅許を得ようとしたのだが、孝明天皇に却下されてしまった。その後彦根城主の井伊直弼が大老職に就き、下田にいたハリスにアロー戦争で英国が清国に大勝し、その勢いで日本に向かうとの情報が齎される。岩瀬忠震らは井伊大老に無勅許での調印を迫り、井伊はやむを得なければ調印も可と返答した。
GHQ焚書

GHQが焚書処分した日本及び世界の政治・政策に関する書籍

GHQの焚書リストのなかから、本のタイトルに「政治」「政党」「政界」「政略」「統治」「政策」「国策」が含まれる書籍を集めてみました。全部で228点ありますが、そのうち102点が「国立国会図書館デジタルコレクション」でネットで公開されており、...
開国前後

ハリスが下田に来航後、なかなか通商条約談判を行うことが出来なかった経緯

ハリスは1855年に初代駐日領事に任命され、さらに通商条約締結のために翌年8月下田に来航した。しかし下田奉行は『日米和親条約』を理由に米領事の駐在を認めなかった。ハリスは粘って当面の滞在を許されたが、英国が日本と通商条約交渉を行う動きやアロー号事件の情報をオランダより入手し、老中首座・堀田正睦はハリスを上京させ、通商条約の審議を開始させた。
ご連絡など

『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』の感想文紹介

【Sさんの感想文】…私の元上司Iさんに届いたメール 『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を読んで「まず、序章でびっくりさせられます。目から鱗とはこのことで、日本人が奴隷として売買されていたなど全く知りませんでしたし、...
開国前後

ロシアと交戦していた英国との条約交渉と、わが国に海軍創設を提案したオランダ

1854年にイギリスの軍船が長崎に入港し、もしロシア艦が日本の港内にあれば攻撃することの許可を得たいとの上申書を提出した。長崎奉行・水野忠徳はイギリスも外交交渉に来たものと考えて条約交渉を開始し、日本の沿岸地域や港近辺が戦場とならないようにした。またオランダのファビウスは日本にも海軍を創設することを幕府に提案した。
開国前後

『日露和親条約』締結後閣老から出された無理難題と、ロシア使節の帰国問題

1855年に日露和親条約が締結され、船を失ったロシア使節は日本が建造したヘダ号やアメリカ船に分乗し帰国した。プチャーチンは日本の対応に感謝し二度にわたりロシアは幕府に感謝状を贈っている。明治二十年にはプチャーチンの娘・オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れている。
開国前後

プチャーチンの交渉スタンスが変わり『日露和親条約』が調印されるに至った事情

当時ロシアはクリミア戦争の最中で、プチャーチンはディアナ号単艦で日本に向かった。下田で第一次の談判が行われた翌日に安政東海地震が起こり、ディアナ号は津波で大破した。戸田村で修理することとなったが曳航途中で沈没し、日本の船大工を使ってロシア人指導のもと、西洋型帆船にとりかかった。プチャーチンは日本側の対応に感激し、以後の交渉はスムーズに進んで、日露和親条約の調印に至る。
ご連絡など

電子書籍版の『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』のデータの修正の件

先月末に、拙著の電子書籍版の発売が開始されましたが、多くの方に購入いただき、Amazonの新着ランキングで4月1日の朝には日本史部門で第2位にランキングされていることにびっくりしました。このランキングは紙書籍と電子書籍の新刊本の売上点数の順...