2019-09

倭寇

倭寇はなぜ元寇のあとから頻発するようになったのか~~倭寇1

9世紀から11世紀にかけて、九州沿岸地方には外国の海賊による襲撃・略奪を何度も受けた記録が残されている。特に有名な事件が刀伊の入寇であり、13世紀に元寇があって、多くの住民が虐殺され拉致された。倭寇は元寇の復讐との見方があるが、南朝勢力が倭寇に関わっていたという記録もある。
GHQ焚書

復刊されて比較的手に入りやすくなっているGHQ焚書

戦後GHQが書店で流通している書籍を没収し日本人に読ませないようにしましたが、その一部の書籍が復刊されて、手に入りやすくなっています。文庫化された本や最近復刊された本などを集めてみました。
元寇

弘安の役で元軍を襲った台風の後も続いた死闘とその後の元の日本侵攻計画~~元寇5

弘安の役で台風が襲来したことは事実だが、東路軍の被害は比較的少なく高麗軍は7割以上が帰国している。江南軍の船は多くが沈んだが、多くの将兵は無事でまだ戦える戦力は保持していたのだが、司令官や将校たちは数万の兵卒を見捨てて船に乗って逃げて行った。その後両軍が博多湾と鷹島沖で激しい掃討戦が行われた。
元寇

弘安の役における武士たちの活躍~~元寇4

弘安の役における東征軍は東路軍と江南軍の二軍編成で、総数は14万人を超える大規模なものであった。東路軍が先に合浦を出港し、6月6日に博多湾に現れたが、防塁が築かれていたための博多湾内の上陸はできず、志賀島に一部の船を上陸させたが、日本武士たちは何度も夜襲をかけて東路軍の進撃を阻んだ。東路軍は一旦壱岐に退き江南軍との合流をし、いよいよ大軍が博多湾に向かうこととなる。
元寇

北条時宗は文永の役のあと次の元寇に備えてどう動いたのか~~元寇3

第一回目の日本征伐が失敗し、元のフビライは日本再征を決断し、文永の役の翌年に使者を送り込んだが執権北条時宗は使者の斬首を命じ、次回の元寇に備えて博多湾に防塁を建設し、要衝に兵を駐在させて国の守りを強化した。一方、元は次回の元寇で必ず日本を征伐するため二十一万の大軍を送もうとしていた。
元寇

文永の役で優勢に戦っていた元・高麗連合軍の船団がなぜ博多湾から消えたのか~~元寇2

文永の役で元・高麗連合軍が一夜のうちに博多湾から消えたのは、元や高麗の正史では、兵力が不足し、矢も不足していたことが記されている。彼らの撤退は予定の行動であったのだが、鎌倉幕府や朝廷は有名な寺社に「蒙古退散」の祈祷を依頼していたことから、寺社側は祈祷の効果があったと主張した。敵軍が撤退した後に高波で座礁した船が壱岐近辺に多かった記録も残されている。
元寇

GHQに焚書処分された北条時宗に関する書籍に何が書かれているか~~元寇1

北条時宗に関する書籍がGHQによって焚書処分されている。現状の教科書には北条時宗について,元のフビライの朝貢要求を無視したとだけ書かれているのだが、GHQ焚書処分された本には、北条時宗や元寇について何が書かれているのだろうか。文永の役では対馬や壱岐で多くの島民が略奪され虐殺され奴隷にされていることや、博多に上陸されたのち多くの犠牲者が出たことが詳しく書かれている。
国会図書館デジタルコレクション

参謀本部が編集した日本および世界の戦史

「国立国会図書館デジタルコレクション」に、大日本帝国陸軍参謀本部が英知を結集して膨大な資料を解析・編纂した、日本及び世界の戦史が収められている。ネット環境があれば誰でも無料で読むことが出来る。 合戦の推移と政治情勢を克明にバランス...
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