水戸藩

公武合体と尊皇攘夷

尊皇攘夷派の武士が増加した背景と坂下門外の変

開港後外国貿易が急速に拡大し、主要輸出品である生糸、茶などの価格が高騰し、消費階級である武士や公家の生活が困窮した。武士の外国人に対する反感や憎悪の念が、幕府に対する不満の情と結合し、外国人を暗殺する事例が相次いだが、文久二年一月には開国政策を進め、和宮降嫁を推進した老中・安藤信正が水戸浪士に襲撃され、一命をとりとめたが失脚した。
安政の大獄から桜田門外の変

桜田門外の変と、その後の薩摩藩、彦根藩、幕府の動き

安政七年三月三日の朝は、桃の節句にしてはかなり寒く、雪が降り積もっていた。合図とともに水戸の志士達は前衛を衝き斬り込んだが、彦根藩警固の士は不意を襲われ、雪のために刀の柄や鞘を羅紗袋などで覆っていたため刀がすぐに抜けず、簡単に輿の戸を破られ、井伊大老の首を落とされている。その後彦根藩は、井伊家が取り潰しにならないように、大老の死を隠蔽し、幕府も彦根藩が断絶とならないように協力した。
安政の大獄から桜田門外の変

水戸藩・薩摩藩が井伊大老の暗殺を計画した経緯

安政五年より薩摩藩で井伊大老暗殺の計画があり、水戸藩士の一部もその密議を重ねていた。安政六年の末に大老井伊直弼は水戸藩に下された戊午の密勅を幕府に納めさせようと、朝廷から勅書返納の御沙汰書を手配させ、水戸藩主の徳川慶篤に強硬に迫り、密勅を幕府に納めようとする藩の動きに藩士たちが立ち上がり、暗殺計画が動き出した。
安政の大獄から桜田門外の変

無勅許で安政五カ国条約を締結したことと安政の大獄

安政の五カ国条約を無勅許で締結した幕府だが、実際に港の近くに外国人が居住するようになると攘夷熱が高まってきた。将軍継嗣問題で敗れた一橋派は、条約勅許問題で朝廷を巻き込み、井伊大老に圧力をかけようとした。「戊午の密勅」のあと井伊はその禍源が水戸藩にあるとにらみ、尊攘派や一橋派の大名・公卿・志士などを捕縛し厳しく処罰した。