版籍奉還から廃藩置県、府県統合 廃藩置県のような大改革が平穏無事に行われたのはなぜか 政府としては、版籍奉還後も実質的に存続していた封建的藩体制を廃絶させると同時に、大規模な反乱を鎮圧できるだけの兵力を中央に整えたかったのだが、政府軍を編成するには薩長の力に頼るしかなかった。薩摩藩の島津久光は廃藩置県に反対であったが、上京した西郷隆盛はそれに賛同し、不平士族による反乱の鎮圧を引き受けることによって廃藩置県を進める体制が整ったのである。 2021.06.17 2022.03.27 版籍奉還から廃藩置県、府県統合
キリスト教問題 明治六年に政府がキリスト教禁教の高札を撤去した経緯 明治政府は浦上の隠れキリシタン百余名を津和野藩などに移送させたのち、さらに明治二年十月に約三千人を捕えて、金沢以下十余藩に移している。各国公使は流罪の中止を強く主張し、政府内部の考え方も変化していった。明治四年に岩倉使節団が欧米視察に出たが行く先々でキリシタン流罪を非難され、今の考えでは、諸外国との条約交渉などができるはずがない事を認識した。 2021.05.06 2022.03.27 キリスト教問題
最後の将軍・慶喜の時代 フランスの指導により軍隊改造に取り組んだ幕府が倒幕派に勝てなかった事情 慶応二年六月より始まった第二次長州征伐の前に、長州藩は英国の武器商人グラバーより大量の最新鋭武器を入手している。この銃の銃身にはライフリングが施され、椎の実型の銃弾を用いるもので、射程距離は従来の銃の数倍あり命中精度も高かった。幕府軍は人数では長州軍を圧倒したが連戦連敗し、将軍慶喜はフランスの指導による軍制改革を決意したが、倒幕の機運の高まりを抑えきれなかった。 2020.08.05 2022.03.27 最後の将軍・慶喜の時代
攘夷の実行と諸外国の動き 攘夷を続ける長州藩の攻撃を決意し四カ国艦隊を下関に向かわせた英公使~~下関戦争1 攘夷実行期日が決定すると、幕府は諸港を閉鎖して外国人を追い出そうとし、長州藩は攘夷の先鋒となるべく関門海峡を通航する外国船に砲撃を加えはじめ、関門海峡が実質的に閉鎖されてしまう。イギリス公使オールコックは米仏蘭の公使と協議し、長州藩に武力行使して海峡の安全な通行を計ろうとした。 2020.06.25 2023.04.21 攘夷の実行と諸外国の動き