関東大震災の貴重な記録は今日に活かされているのか~~その3.津波被害

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震災後の鎌倉を襲った津波

 前回まで2回に分けて大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災における火災被害を中心に書いてきた。この大震災で東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出たが、死因の9割弱は火災によるもので、約1割が倒壊した建物の下敷きになったことによるものとされているが、津波や山崩れによる死者もわずかながら記録されている。今回は津波の被害についてレポートしたい。

『震災五十八景』 鶴ヶ丘八幡

 内務省社会局がまとめた『大正震災志 上』に、鎌倉に関する被害についてこう書かれている。

 鎌倉に於ては、まず震災により民家は概ね倒壊し、多くの死傷者を出したが、中にも、由比が浜御別邸にご滞在あらせられた山階宮妃殿下には、悲しいかな非業の御圧死を遂げさせ給い、なお、同邸にご滞在あらせられた賀陽宮大妃殿下にもまた御重傷を負わせらるるなど、かれこれ御痛ましい限りであったほか、建築物に於ても歴史的著名な神社・仏閣を多く破壊した。鶴ケ丘八幡宮境内の舞殿・円覚寺・建長寺の如きみな然りである。震災に次いで、鎌倉町内には数か所より火を発し、小町・大町・雪ノ下・長谷などおよそ鎌倉の枢要地域は悉く焦土となり、かの義経腰越状によって有名な腰越の地も、震後の火災にて民家百五十戸を烏有に帰せしめた。

 鎌倉海岸には、震後間もなく海嘯(つなみ)襲来し、約三丈*の巨涛は由比が浜を洗い、民家数十戸を流し、同時に恰も同所海中にありし海水浴客約百名は溺死もしくは行方不明となった。また七里ヶ浜に於ては、護岸約十丁**壊滅し、江島の大桟橋もまた海嘯に浚われ、たまたま橋上に在った者約五十名は橋と共に陥没行方不明となった。

*丈:3.03m(三丈は約9m)  **丁(町):109.09m=(十丁は約1.1km)

内務省社会局 編『大正震災志. 上』p.692-693 大正15年刊
大正震災志. 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 鎌倉の津浪の規模については諸説あり、東京朝日新聞社の『関東大震災記』(大正12年刊)では「十五六尺」すなわち4.5~4.8mであったとし、海岸近くの家は津波に襲われて殆んど全滅したと書かれている。また鎌倉の全戸数4310戸のうち全潰全焼2676戸、半潰半焼1099戸、流出77戸、浸水50戸とあるから、9割以上の家が被害を受け、人口18847名のうち、死者が354名、重傷者1480名と書かれている。

関東大震災記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 教科書などでは、関東大震災の際に津波の被害が出たことについては一言も書かれていないのだが、『しられざる鎌倉探索』というサイトの「関東大震災の鎌倉」に震災後の被害状況を写した写真が多数掲載されているので一度閲覧されることをお勧めしたい。

知られざる鎌倉探索
由比ヶ浜海嘯跡(鎌倉市中央図書館蔵)

 上の画像は同サイトに案内されている「由比ヶ浜海嘯跡(鎌倉市中央図書館蔵)」だが、この画像を見ると坂ノ下地区ではほとんどの家が津波に襲われたことが明らかである。

関東大震災の鎌倉 その1

鎌倉を襲った津波による死者は何名程度であったのか

 前掲の『関東大震災記』では鎌倉の死者は354名とだけ書かれていて、死因別の数字については記されていないのだが、冒頭に紹介した『大正震災志. 上』には「海水浴客約百名は溺死もしくは行方不明」とあった。津波による死者数については諸説があり、大正12年刊の『帝都震災大火実記』にはこう記されている。

大海嘯が起こり江ノ島電車軌道まで押し寄せた。そして付近の別荘を洗い流し、折柄海水浴に出かけていた老若男女三百余名は波に浚われて行方不明となってしまった

表現社 編 『帝都震災大火実記』 p93~94 大正12年刊
帝都震災大火実記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 この地震と津波を体験した人の記録が『大正の大地震大火災遭難百話』という書物に出ている。この方の自宅は駅前にあったのだそうだが地震で倒壊してしまい、家族は全員宮前の広場に避難していたが津波が来るとの噂があり、八幡宮の高いところに登ったところから引用する。

 見渡す限り鎌倉の町は一軒の家もありません。全部倒れました。ご承知の通りこの地は名所旧跡が多く、名高い寺や、大切な建物もあったのですが、この様子では全滅です。死人の数も新聞では五、六百人のようですが、どうしてどうして詳しく調べたら幾千という死人でしょう。地震で家の下になり圧死した者だけでも大変な数ですのに、海嘯のために、さらわれた者はいくらあるか知れません。鎌倉町一帯はほんとの海になったのです。私の家などは材木一つなくきれいに流されてしまいました。

(定村青萍 編『大正の大地震大火災遭難百話』p.137~138)
大正の大地震大火災遭難百話 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 このような記録を読むと、津波による死者がかなり出たことは確実だと思えるのだが、昭和5年に鎌倉市が出版した『鎌倉震災誌』には「理学博士・中村左衛門太郎」氏の「発表」をもとにこうまとめている。

 海嘯による被害は、坂の下53戸、長谷30戸、乱橋材木座30戸、計113戸の流失戸数を数えるにすぎず、統計上からみれば甚だ僅少であるが、その現場は実に惨憺たるものであった。また倒壊家屋の下敷きになって溺死した者も少なくなかったが、彼らの中には「海嘯なかりせば」当然救助された者もあろう。しかし一方においては津波に幸いされて、倒壊家屋の浮遊流失に依りその下敷きになった者で九死に一生を得た幸運者もあり、火災を未然に防止して大事に至らしめなかった事実も坂の下乱橋材木座等にある。

 なお当日、由比が浜で海水浴中の者百余名が津波にさらわれ行方不明になったと、ある震災誌に記されてあるが、この日天候不良のため海水浴をする者ほとんどなく、また海岸にいたものも地震におびえ引き続く海嘯の襲来を予知することが出来たので、何れも速やかに避難し、行方不明になった者は全くなかったのである。

鎌倉町 編 『鎌倉震災誌』 p.78 昭和5年刊
鎌倉震災誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 関東大震災を襲った日は土曜日で、海水浴をしていた者がどれだけいたかは今となっては確認しようがないのだが、火災から逃れようとして海岸に避難していた者もいたことであろう。また鎌倉は震源地から近かっただけに、津波が到達するまではそれほど時間がかからなかったはずである。遊泳していた者が地震に気付いてすぐに浜に戻って、全員が地震後20分以内に安全な場所に避難したというのは、にわかには信じがたい話なのである。

厨川白村 (Wikipediaより)

 英文学者の厨川白村(くりやがわはくそん)は、震災の当日に鎌倉の別荘に居て、逃げ遅れて夫人とともに津波に呑み込まれ、救助されたものの罹災の翌日に亡くなっているのだが、鎌倉市はこの英文学者の死因をどういうふうに分類したのであろうか。もしかすると鎌倉市は、別荘にいた者や他地方からの海水浴客など鎌倉の住民でない者を統計対象から外して数字をまとめたのか、あるいは「行方不明になった者」だけに焦点を当てて、溺死した者はいたことが分かっていたが、あえて人数は書かなかったということなのか。

 いずれにせよ鎌倉市は、地震学者の権威を利用して、津波被害が小さかったことを読者に印象付けようとしたとしか思えないのである。

伊東市、熱海市にも津波が襲った

 鎌倉と同様に、相模湾に面している他の都市にも大きな津波被害が出ている。

『震災五十八景』 伊豆伊東 海嘯の跡

 静岡県警察部保安課がまとめた『静岡県大正震災記録』には伊東市は地震後7~8分後に伊東町、宇佐美、小室、対馬各町村に津波が襲い、伊東町、玖須美の浜臣道方面の部落は殆んど流失のために全滅したことなどが書かれている。また熱海の津波については同書に詳しく記録されているので紹介しておこう。

…激震ひとまず止み、海岸に接近せる町民は、皆言い合わしたる如く人家を離れ海浜に避難し一息するいとまもなく(この間初震より約十分位)突如として平穏なる海面に丈余の津波襲来するに際し再び高地を望んで逃げ延びたるも、この際逃げ遅れて遂に溺死を遂げるに至りたるもの多数あり。この第一海嘯にて浸水したるは熱海町のうち新浜町、清水町和田の各一部にて、浸水最も甚だしきは床上四、五尺*に及べり。而して第一海嘯の比較的微弱なるに町民は安堵し、衣類の着替えあるいは貴重品を持ち出さんと自家に立ち帰りたる者多数ありたる処折柄(この間五分間位)第二の海嘯は数倍の勢いを以て襲来し、約二丈五尺**の高波は、新浜町全部、清水町和田の一部を呑み、比較的小家屋の密集し殊に地盤平坦なる箇所の家屋は、恰(あたか)も木の葉を浮かせるが如く全部浮き上げられ、強大な力を有する引き波のためにこれら人家は悉(ことごと)く海上に浚(さら)われたり

…中略…

 阿鼻叫喚の声全町に満ち、海中遠く流出する家屋の屋根にて救いを求める者、あるいは波間の樹木に縋(すが)りて助けを乞う者等、その続々押し流され行くを目前に見つつもこれを救わんとすれども一隻の小舟だになく、また海嘯の襲来を恐れては、全くこれが救助に手を下す能わざるなり。かくの如く一瞬時にして、或は親を失い、或は妻子に分れ纔(わず)かに身をもって死を免れたるも、家財道具はこれを悉く失える者幾何(いくばく)なるを知らず。これらの悲惨事に会し、殆んど半狂乱の体を以て泣き叫び飛び回る有様、誠に見るに忍びず。その惨状、到底筆紙のよく尽すところにあらざりき。

*尺:30.3cm(四、五尺=1.2m~1.5m)  **丈:3.03m(二丈五尺=7.6m)

静岡県警察部保安課 編『静岡県大正震災記録』p.16~17大正12年刊
静岡県大正震災記録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

津波襲来の貴重な記録はなぜ風化してしまったのか

 Wikipediaによると、千葉県館山市、神奈川県三浦市、逗子市、藤沢市にも津波が襲ったことが記されているのだが、今日において関東大震災時の津波の被害についてはほとんど話題になることがない。これはなぜなのだろうか。震災のあとの火災被害があまりに大きすぎたことと、東京や横浜で大きな津波が来なかったことが主な理由なのだと思われるのだが、相模湾を襲った津波の被害は決して忘れてはならない規模のものであったことは今まで述べて来たとおりである。

 しかしながら、大地震で建物が倒壊した後に火災が発生しさらに津波が襲来した場合に、犠牲となった人々の死因が地震で建物の下敷きとなったことによるのか、火災にあるのか、あるいは津波によるのかを判定することは容易ではなく、ある程度恣意的な判断が入りやすいところである。

 もし津波による死者が大量に出てしまった場合は、津波危険地域の住居移転や堤防の設置、河川の流域拡大などの抜本対策を考えざるを得なくなり、津波対策の策定から地権者の権利の調整や交渉などに長い年月がかかり、災害復興が遅れることになってしまう。

 多くの場合被災地の人々は、自らが保有する土地の範囲内で自宅や社屋などの修復や再建を急いで災害復興を果たそうとする傾向にある。特に鎌倉や熱海のような有名な観光地の場合は、津波の堤防を作ったり古い街並みを壊して住宅やホテルを移転するような観光地の景観や風情を台無しにしてしまう提案を地元民が受け入れること不可能に近い。また、将来的に観光客が激減することにもつながりかねないので、津波被害が甚大であったという公式記録が残ることを好まないのではないか。

 このような事情から、『鎌倉震災誌』のような有名観光地がまとめた記録は、編集段階で津波被害をできるだけ小さく書こうとした可能性が高いと私は考えている。

 同様な傾向は他の観光地でもある話で、例えば山下文男氏の著書『津波てんでんこ』にはこういう記述がある。

(津波被害が出た)地域が、鎌倉、熱海、伊東という、全国的にも有名な温泉地であり、観光海岸であることも、長い間「津波」を語り難くし、風化を早める原因の一つになったように思う。1984年のことだが、筆者が「関東大震災と津波」(『暮らしと政治』)という論考を書いた折にも、熱海の観光業者の方から抗議めいた手紙をもらっている

山下文男著『津波てんでんこ』p.64 2008年刊

 有名な観光地においては、復興が遅れればそれだけ観光収入が激減して地元の経済が成り立たなくなるので、早い復興を実現するために津波被害などはなるべく小さく書くようにとの圧力がかかることは十分にありうることで、実際に著者の山下氏は、35年前に津波の真実をありのままに書いた研究を公表したことが熱海の観光業者から抗議されたのである。そうすることによって、被災した観光地においては災害前の街並みの復元が優先されることになりがちなのだが、これでは津波を体験した先人たちの証言が活かされず、津波に強い町づくりは難しい。

鎌倉市津波ハザードマップ

 次のURLに鎌倉市の津波ハザードマップが公開されており、これを見ると大型地震が発生した場合には、鎌倉の中心部の過半が津波で浸水することを示している。神奈川県が想定する南関東地震の場合は第一波の津波が地震後10分程度で到達し、最大波の津波は30分程度で到達するというのだが、この地図では津波避難ビルが随分少ないと感じるのは私ばかりではないだろう。

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/sougoubousai/documents/01tsunamih-m-yui-sakanosita.pdf

熱海市津波浸水想定図

 次のURLは熱海市のハザードマップだが、熱海市の場合の津波到達時間は早ければ3分なのだそうだ。山につながる道や高いビルが近くにある地域住民はなんとか避難できるかもしれないが、居住地域によっては3分で避難することが難しい地域もある。その後避難ビルが追加されたのかもしれないが、この地図では津波避難ビルが少なすぎると思われるのである。

http://www.city.atami.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/000/585/3436item_file.pdf

 津波は災害間隔が比較的長く、人生で何度も経験する災害ではないために、体験した人々がこの世を去って世代が入れ替わっていけば、津波に対する警戒心が次第に薄れてしまいがちになる。しかしながら、体験した世代が残した災害の真実が忘れ去られてしまっては、大きな被害を何度も繰り返してしまうことになってしまうだろう。

 震災直後に出版された書物には貴重な災害体験の記録が数多く残されていて、地震や津波の恐ろしさが伝わってくる。防災意識を高める啓蒙活動の中で、この様な貴重な記録を多くの人に読んで頂きたいと思う。

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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。

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